第九回



 
半世紀を越えて
   ―「月光」の旅 ③

沖縄から帰ったピアニストの松浦真由美を待っていたのは「月光のステージ」だった。
宮崎県主催の終戦五十周年記念の夕べで、祖父の戦争をたどった沖縄での体験を語り、特攻隊員が出撃前に弾いたピアノでベートーベンのソナタ「月光」を演奏する。
このステージは、戦争末期の悲劇である沖縄戦と特攻隊を結ぶことになる。私が新聞に連載する「戦後生まれの戦争」の冒頭はこの場面から始まり、松浦が体験した祖父の戦争を中心に展開させるつもりだった。
しかし、私には気がかりな写真があった。かすかな笑みの中に寂しさを漂わせている特攻隊員の横顔----。
出撃前にピアノを弾いたのは彼ではない。松浦の祖父と関係があったわけでもないのだが、その表情が妙に私の気持ちに引っ掛かった。
その写真とは偶然に出合った。戦争に関する資料を集めていた時、何気なく開いた本の中にあった。写真の横にこう書かれている。「鹿児島の知覧基地から沖縄付近に展開中の米太平洋艦隊へと体当たり特攻に出撃する特攻隊員、黒木少尉」
その本を読んでいくと、黒木少尉の出身地は宮崎県とある。戦没者名簿で調べると、私と同じ延岡市で生まれ育った人であることがわかった。それも、すぐ近所だ。
 特攻隊長として出撃し二十二歳で戦死した黒木國雄。深い悲しみをたたえた松浦の「月光」と、彼が最後に見せた寂しげな微笑みとが重なり合った時、私は縁(えにし)を感じ、彼のことを書きたいと思った。

5年前の春、鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館を訪れ、特攻隊員が出撃前に弾いたピアノで「月光」を弾く松浦真由美。その後、このピアノは宮崎に運ばれ、終戦50周年記念の夕べで彼女がステージで弾いた。


 黒木國雄は小さい頃から真面目で、心のやさしい子供だった。中学時代は、学生帽を深くかぶり、肩から斜めにカバンを掛け、まるで道に線でも引いてあるかのように真っすぐに歩いて学校に通った。
 祖母が入院した時は、毎朝、一日も欠かさず病院まで祖母の食事を届けた。夕方、学校から帰ると家の座敷を掃除し、庭を掃いて、また病院の祖母のもとに食事を運んだ。
 軍人にあこがれ、そのために懸命に勉強した。深夜まで机に向かい、朝も早く起きて勉強。しかし、ガリ勉タイプではなく、近所の友達とよく遊び、「くんちゃん」と親しまれていた。
 昭和十六年四月、念願の陸軍予科士官学校に入校。その年の十二月に太平洋戦争が始まった。

 父肇は、長男の國雄が生まれた時から軍人に育てようと心に決めていた。國雄が延岡中学校を卒業して難関の陸軍予科士官学校に合格した時は大喜びした。入校のための上京には肇も付き添って行った。
 その年の十二月に戦争が起きる。肇は激励の電報を息子に送った。父親から励ましの電報を受け取ったのは全校生徒の中で國雄だけだったという。
 それから肇は毎日、國雄に励ましの手紙を書いた。國雄も一週に一回は返事を書いた。息子も父もお互いを誇りに思っていた。

 昭和十九年九月、陸軍士官学校を卒業して陸軍少尉になった國雄は休暇で延岡に帰ってきた。
 休暇も終わり、隊に帰る日のこと。弟の民雄は、延岡駅で兄を見送った時のことをはっきりと覚えている。
 「『これが最後だと思うけれども…』と言った兄は、発車のベルが鳴ると列車のデッキに立ち『それでは行きます』と挙手の礼をしました。列車がゆっくりと 動き始め、ゆるやかに右に曲がりながら列車が走っていきます。直立不動で敬礼したままの兄の右腕がデッキから張り出し、いつまでもいつまでも見えていまし た」
 父肇以外の家族にとって、これが國雄との最後の別れになった。

 昭和二十年四月、國雄が特攻隊長になったと東京の親戚が知らせてきた。肇は家門の誉(ほまれ)と喜んだ。 一カ月後、國雄から電報。
「キランニヲル クニオ」
 肇は息子を励ましに面会へ行こうとしたが、電文が「チ」を「キ」に誤っていたため場所がわからなかった。
 二日後の五月九日、國雄から手紙が届く。知覧からだった。近くの寺で遊んでいた民雄も呼び戻され家に帰ってみると、座敷に父と母が正座して並び、その前に一通の封書がある。
 父が封を切ると、中から半紙に包んだ髪の毛と遺書が出てきた。


父上様 母上様 國雄は全く日本一の多幸者でした。二十二年の御教通り、明日御役に立つ事が出来ます。私が幼少の頃から憧れて居た皇国軍人と成り得て、而 も死所を得せらしめて戴けるとは唯、感激の外ございません。隊長として部下と共に必殺必沈、大君の御楯と散る覚悟です。又必ず散り得るものと信じて居りま す。

神州に仇船(あだぶね)よこす えみしらの 生き胆とりて 玉と砕けん

二十二年の過し方を顧みますと、唯々皆様に対して感謝の念で一ぱいです。実際 楽しいものでした。又予科、本科と有難き四年は、我が一家にも日本の家として感謝と誇りに満ちた日であった事と思ひます。
國雄は真に満足です。(中略)
父上様 母上様 國雄は永久に日本人として生かして戴く事が出来ます。御安心下さい。(後略)


 五人の兄弟に宛てた遺書もある。弟の民雄へはこんな励ましの言葉が書いてあった。


今後、民雄が色々の事にぶつかって困ったり、つまらなかったりする様な事があったら、つまらぬ兄であったが、この兄を思ひ出せ。必ず民雄は元気を出す事が出来る。兄も必ず又力を出してやる。


 最後に「前夜」と記されている。すでに出撃した後だと思ったが肇は、息子が特攻隊長としてどのように出撃したのかを知りたかった。知覧へ行くことにした。
 翌日の五月十日午前五時、肇は延岡駅を出発した。母ソノは國雄が好きだった饅頭を作って肇に持たせた。
 列車の中で肇に「知覧へ行くんですか」と聞く人がいた。報道部の命令で特攻隊の写真を撮りに来ていた小柳次一である。隣の席で立ったり座ったり、ずっとそわそわしている肇が気になり声をかけた。
 この偶然が小柳に"あの写真"を撮らせた。五十年後に私が本「従軍カメラマンの戦争」で出合うことになる写真である。

 知覧に着いた肇は思いがけない言葉を聞いた。
「黒木隊長は、三角兵舎にいます」
 國雄は本当にいた。六日に出撃したが、飛行機の調子が悪く途中で引き返した。翌朝、再び出撃するという。
 その夜、父と息子は三角兵舎の中で最後の夜を過ごした。
(二人の様子は、同じ兵舎に泊まっていた報道班員の高木俊朗が著書の中で克明に記録している。一部抜粋しながら再構成する)

出撃前の黒木國雄。私には少し寂しげな微笑みを浮かべているように見える。
昭和20年5月11日、従軍カメラマンの小柳次一が撮影した。



 親子は語り続け、話が途切れると父は息子に
「しっかりやってこい」
「必ず航空母艦をやるようにな」
と、力を込めて繰り返した。
 並んで寝床に入ると、肇は國雄の方に体を向けた。國雄が、遺書を見て母は泣かなかったか、と聞くと父は
「なにが、かあちゃんが泣くものか。一番しっかりしておったよ。お前が士官学校に入った時から覚悟はしておったよ」
 息子が寝てからも父はその顔をじっと見ていた。それから、かなり時間がたって父は起きだし、隊員の間を回って毛布を掛け直していた。
 その夜、父は眠れなかった。

 出撃の朝が来た。出撃機が四十機あまり飛行場の準備線に集まった。
 國雄と一緒に飛行場に出た肇は
「どうか、しっかりやってください。必ず航空母艦をやってください。頼みます」
そう言って最敬礼をした。
 発動機の激しい音の中、父と子は耳に口を寄せながら、こんな会話を交わした。
「とうちゃん、國雄の晴れ姿を見て、満足じゃろがね」
「うん満足だ。しっかりやんね。これで、かあちゃんに土産ができたぞ」
 國雄は一歩しりぞき、姿勢を正して挙手の礼をした。
「行きます」
父は無言で深く頭を下げた。
 黒木隊の各機は出発線に並んだ。白い旗が上がった。二百五十キロ爆弾を積んだ國雄の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」は走りだした。この日の一番機が黒木國雄少尉機だった。

    
國雄を乗せて走り始めた「飛燕」に帽子を振って見送る父肇(右)。これが最後の
別れだった。(小柳次一撮影)



 父と子の別れの場面に立ち合ったのは報道班員の高木俊朗だけではなかった。知覧行きの列車の中で肇と偶然会った従軍カメラマンの小柳次一もその場に居合わせ、写真を撮った。
 操縦席に座り微笑んでいる國雄の横顔と、息子を乗せて走り始めた特攻機を見送る父親の後ろ姿である。
 この二枚の写真を初めて見た時に私は、悔いのない道を選んだ人の晴れやかな顔と、息子の出撃を喜ぶ父親の姿だろうと思った。
 戦後生まれの自分には理解できないが、特攻隊とはそのようなもので、そんな時代だったのだ、そう考えようとした。
 ところが高木は本の中に、父に最後の別れを告げ、自分の乗る特攻機の方へ向きを変えた國雄をこう書いているのである。
「その目に涙が光っていた」
 この文を読んだ時から、國雄の最後の表情は、父との別れの悲しみを隠すために作った微笑みだったのかもしれない、と思うようになってきた。
 さらに写真をよく見ると、小柳は操縦席の右斜め後ろから撮影しているのに、國雄の右側の顔だけでなく左側の目までわずかに写っている。つまり、國雄は少し後ろを振り向いていたのだ。視野の中にはっきりと父親の姿をとらえていたに違いなかった。
 次に小柳がシャッターを押したのは、走っていく國雄の特攻機に向け、帽子を盛んに振っている父肇の後ろ姿である。
 この場面に立ち合った小柳と高木は著書の中にそれぞれ、肇の心境を表すエピソードを残している。
 小柳は「従軍カメラマンの戦争」の中でこう回想する。
「飛行場でお父さんを見てましたら、何かしきりにぶつぶつ言っているもんだから、そばに寄りましたら『敵の飛行機に落とされませんように。無事、敵艦に激突してくれますように』とずっとお祈りしておりました」
 高木は、上空を飛ぶ黒木隊を見ていた肇から何度も尋ねられたという。
「國雄の飛行機はどれでしょうかな」「國雄は、どれでしょうかな」

 国に命を捧げる覚悟で飛び立つ息子。しっかりやってこい、と励ます父。二人が別れの瞬間に見せたのは、悲しいほどの親子の情愛であった。
 この痛ましい別れは戦後、父肇に暗い影を残すことになる。

     

 六月二十九日、延岡市は空襲を受け、黒木の家も全焼した。それから二カ月もたたないうちに敗戦。肇が國雄と永遠の別れをしてから、わずか三カ月後のことだ。この時から肇は変わってしまった。
 國雄の五十回忌に親族らが出した回想録「黒木國雄 想い出の記」の中に、國雄の妹の美智子が父のことを書いている。
 黒木一家が疎開していた高千穂町の家の前を、復員兵を乗せたトラックが毎日のように通る。そのたびに「今のは國雄に似ていた」と言ってはトラックの後を追って走った。
 眠れない夜がたびたびで、掛かっている写真の下で兄に語りかけている姿を幾度か見た。
 母ソノもそうだった。雨戸が風に揺れ音をたてると、「國雄が帰って来たのでは」と真夜中に戸を開けて息子の姿を探していたという。

黒木國雄の軍刀。戦後占領軍からの没収を逃れるために父肇が鍛冶屋に折らせた。
肇の気持ちが痛いほど伝わってくる。



 ある日、父の悲しみは怒りに変わった。その時の肇のやるせない気持ちを表すものが今も残っている。
 折れた軍刀である。
 二男の民雄はこんな話をした。
 その軍刀は、國雄の形見として肇が知覧から持ち帰り、空襲で家が焼かれた時も命がけで守った。敗戦になり、占領軍から軍刀や小銃などを提出するよう命令が出たが、肇が納得できるはずがなかった。
 民雄と三男の義雄を連れて裏山に行き、軍刀で木や竹を手当たり次第に斬ってまわった。そして鍛冶屋に持って行き、二つに折らせた。
 「親父の意地だったのでしょう」と言いながら民雄は、鞘(さや)から抜いて私に見せてくれた。
 鋭い光は失っていないが、刃はこぼれ、半分から先のない軍刀が目の前に現われた。肇の無念の思いが伝わってくる。痛々しい戦争の記憶…。
 肇はノートにこう書き残した。
「サラバ國雄最後の地、知覧に又父は来るよ」
 しかし、知覧に一度も行くことはなく、昭和三十九年に五十九歳で亡くなった。

      

 民雄によると、父肇は知覧から出撃する息子を見送り、延岡に帰ってくると「國雄は航空母艦をやったぞ。喜べ」と言ったという。
 一九四五年五月十一日に出撃したのは黒木國雄少尉機をはじめとする四十機あまり。
 アメリカ軍の資料によると、この日出撃した特攻機は空母バンカー・ヒルに二機、駆逐艦エヴァンスに四機、同ヒュー・W・ハッドリーに二機、オランダ商船ジスタンに一機それぞれ命中したという。
   (森本忠夫著「特攻」より)
 しかし、國雄が本当に敵艦に体当たりしたのか、誰も知らない。無数のグラマン機と高射砲、ロケット機関砲弾が飛んでくる中、沖縄までたどり着けたのかすらも明らかではない。誰一人帰ってきていないのである。
 「親父は自分で自分を納得させようとしていたんだと思う」と言う民雄も戦後、アメリカの空母バンカー・ヒルに特攻機が体当たりして炎上している写真を見て、兄がやったんだと信じていた。
 「そう思わないと遺族は救われません」
 民雄の言葉が胸に突き刺さる。
           (つづく)
参考資料
「知覧」高木俊朗/「遺族」高木俊朗/「従軍カメラマンの戦争」写真・小柳次一 文・構成・石川保昌/「特攻」森本忠夫/「黒木国雄 想い出の記」