ホスピス旅日記’97 ⑫

◆アムステルダムで◆
ヨーロッパに着いてから、ジュネーブ、リヨン、パリ、そしてアムステルダムと列車の旅をしてきた。私の旅もなかばを迎えている。アムステルダムの街はとて もかわいいと思う。歩いても町を横切れる広さのところに、縦横に運河が走っている。町のどこかへ行こうと思ったら、運河にかかっている橋を幾度も渡って目 的地に着く。オランダの家は皆どこも昔ながらに、レンガ造りの4階建てで、それにひとつ屋根裏部屋がくっついている。
アメリカの友人の紹介で初めて訪れたセシリアの家も、そんな同じオランダの家だった。
4階まで階段を登った私は、はじめて彼女に会った。型通りに「ナイス・ツー・ミーチュー」と言って挨拶をした。
日本から見れば、はるかヨーロッパかも知れないが、友達どうしはつながっているので、私は知らない人を初めておとずれたという感覚はあまりなかった。
彼女はこのアパートにひとりで住んでいた。マッサージをなりわいとしていたが、不思議なことに、アメリカ人から紹介されたこのオランダ人であるセシリアは 日本の文化に強い関心を持って暮らしているのだった。驚くことに彼女は毎日、味噌汁を自分で作って飲む。私への最初のもてなしはいつもやっている「味噌 スープ」を作って私に食べさせることだった。しかし、変わっているのは食事としてではなく、おやつのようにして健康のために飲むことだった。特に彼女は日 本人の知り合いがいるという訳ではない。しかし彼女は英語で書いた豆腐や醤油の造り方を書いた本まで持っていたし、カリグラフィ(書道)も練習しているの だった。

◆セシリアの友人たち◆
夕方になると、セシリアの友人たちがやって来た。コンピューターで子どものテレビ番組の音づくりをしているというピエールと、仕事はなんだったか忘れたけれどタオイストのガブリエルだった。
私たち4人はビールを飲みながらパーティーを始めた。いろんなことに話は展開した。ホスピスのこととかタオイズムのこととか音楽のこととか、私にはこんな話しの中で奥の方でテーマはつながっているような気がした。
タオイズムと言えばご存じのように老荘思想のことであり、人が生きていく上で「気」というものを大切にする。思い出せば私はアメリカでたくさんのアメリ力 人の針灸師に会った。北米では今かなり針灸が広まっていて、針灸の大学なども現在では、日本よりその内容が充実しているのではないかともいわれるくらいで ある。私はシアトルにいた頃、あるアメリカの針灸師から本多勝一著の「はるかなる東洋医学へ」という本を渡されて「これ読んで見ない?」と言われたことが ある。私はこんなふうに針灸師やタオイストたちと出会っていく中で、ホスピスと東洋医学とのつながりを考えざるを得なかった。そういえばなにも痛みを取る のに必ずしも西洋流のモルヒネである必要はない。痛みが取れさえするならば、その手段は何でもいいはずである。マッサージでも、針灸でも、「気」でも。そ れに本当の意味でホスピスの思想が世界に広がって行くためには、東洋の思想や医学とも出会う必要があるだろうと考えた。
その夜は話しがはずんでたいへん楽しい夜だった。話しの途中でセシリアが書道の筆を出してきた。彼女は字の意味もまったく分からないで、筆順を書いた手本 どおりにまねて書いているのだった。私はそこにいるみんなの名前を漢字に変えて書いて見せた。夜の2時位まで、みんなで語り合い、時にギターの得意なガブ リエルがギターをひいたりして時間を過ごした。

◆アンネ・フランクの家◆
ところで、皆さんもご存じだろう、アムステルダムといえば、15才のアンネ・フランクが家族と一緒にナチの目を逃れて隠れ家に住んでいたが、戦争が終わる直前、見つかって、強制収容所で死んだことを。私も中学の頃に「アンネの日記」を先生に勧められて読んだことがある。
オランダに行く機会があったら、いつかその家を訪ねたいと思っていた。その機会がやってきた。次の日、私はセシリアの家から、歩いて10分くらいのところ にあるアンネ・フランクの家に行った。4階建ての黒っぽいアパートの前には人だかりがしていた。通りがかりの人に聞くと、いつもこうなのだそうである。世 界中からアンネが住んでいたところを見るために、毎日、多くの人がやって来る。思えばたった15才の少女がこれだけの人たちを世界中から引き寄せていると いうことは不思議なことだ。たぶんアムステルダムの中でこれほどひっきりなしに人々がおとずれるところはここをおいて他にないだろう。
アパートの中は50数年前そのままに残されていた。隠れ家の入り口になっている本棚、狭い階段、中は意外に広くて、2家族がこの中に住んでいた。3階と4 階の裏側部分が隠れ家になっていた。人から見つからないように、昼でもぴったりカーテンも閉められ、今でもそんな風になっている。カーテン越しに外の木々 の葉が見えるが、若いアンネたちは、せめて木々のみどりを窓を開け放って眺めたかったろう。
映面スターとか皇室家族とかが好きだったアンネは自分の部屋の壁にそんな写真をいっぱい貼っていた。今はその壁の上にガラス板が張られて、少し色あせてい るがそのままに残っている。昔の洗面台と彼らが行水用として使ったブリキ製の浴槽と、なにもかもが当時を彷彿とさせる。50数年前といえば、そんなに昔で はない。そのころ10代だった人は、生きていればまだ60代だし、昔のこととしてでなく私たちが生きている同時代に起こったことと思うのである。人間はそ んなに酷いことを行いうるのか。おりしも近ごろドイツではネオナチがデモを行ったりして、少しずつ勢力を延ばしているという。ヨーロッパでは失業率が10 パーセント近くもある国もあるという。世界中に金融不安もある。アンネに代表されている問題は遠い昔の過ぎ去ったことではない。現代の間題である。平和の 大事さを思う。



◆オランダという国は◆
昼からコンピューターをしているピエールと待ち合わせていた。彼のスタジオに案内してくれるという約束だった。街で会って、一緒に道を歩きながら、彼は言った。
「知ってるか?アムステルダムの街がどれくらい海より低いか。」私は「さあ、1、2メートルくらいかな?」と答えた。
彼は「いや、違う、10メートル位低いんだよ。ほら、ごらんよ、この道端の上に貝殻がいっばい落ちているだろう。ここは昔みんな海だったんだよ」と、道端 から土をすくいながら説明してくれた。そういえば地球温暖化の問題の時にもっとも切実な思いを持っていた国の一つはオランダだった。なぜなら地球の温度が 上がると極地の氷がとけて、海の水位が上がることが危惧されるからである。
ピエールのスタジオに行くと、背の高い同僚がひとりいた。私には良く分からないがコンピューターとオーディオの機器がぎっしりと並べられていた。ピエール は「こうやって、音をつけるんだよ」といって、機械を操作し、テレビ画面にあわせながらやって見せてくれた。それは子ども向けの番組だった。とても微笑ま しかった。
帰りに角のバーに寄って、ビールを一杯だけ飲んだ。彼は柔らかいハートを待っているようだ。彼とは友だちになれそうだった。

◆ロンドンへ◆
あまりにも短いアムステルダムの滞在に心残りを抱きながら、再会を約して私は次の訪問地ロンドンに飛んだ。飛行場から列車に乗って、私はロンドンに入り、郊外のB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)に宿をとった。
折しもロンドンはダイアナ妃の葬儀前夜で興奮状態であった。それはパリの事故から1週問たった時だった。私はその日地下鉄に乗って、ウエストミンスター寺院などのあるロンドンの中心地に行って見ることにした。
もう夜になっていたが、寺院の周辺は人、人、人の山だった。田舎から出て来たのだろう歩道という歩道はどこも人々が場所を取って座り込んでいる。明日の葬 儀のためにもう何日も前からそうやって座っている人もいるという。ある人はそこでロウソクを灯したりしている。道行く人誰しもがプリンセス・ダイアナのこ とを考えて歩いているという風だった。寺院の周りなど無数の花束が鉄柵に差し込まれていた。私はその静かな熱気に圧倒される思いだった。

◆葬儀の当日◆
ダイアナ妃がしてきたことを良く知っているかはどうかは別にしても、その日は歴史的なできごとのひとつになるだろうということは感じられた。たまたま私は その日ロンドンにいるというめぐり合わせだったので、朝、私は出かけることにした。ハイドパークのあたりで地下鉄から地上に出た私は、すでに多くの人々が 黙々と一つの方向に向かって歩いてい
るのに出会い、合流した。広いハイドパークは遠くまで見渡せた。あちらからも、こちらからも人々がやってくるのが見えた。ウエストミンスター寺院からバッ キンガム宮殿のところに着くと本当に数十万から数百万の人々が集まって来ていた。ここへ来る途中、私はこんなに多くの人を一どきに見たのは初めてだと思っ た。
私はバッキンガム宮殿の正面の通りでみんなの中にまじって棺を待った。人々は少しも押し合うということなく、みんな静かに整然としていた。
一時間くらいも待っただろうか、みんなもテレビで見られたであろう黄色い棺が目の前を通っていった。


バッキンガム宮殿の前を葬送の列が進んでいく

◇百万本の花束◇
この葬儀の中でいろいろ思うことがあった。まずは、皇室であったとしても、たった一人の人のためにこれだけ多くの人が集まって来、心を合わせることができ ること。それはだれからも強制されたことではなかった。みんなが自発的にお金を出してここまでやって来たことは、ダイアナ妃が何をなした人か別にしても、 もしかして西洋的なひとつのブームのような現象であったとしても、これはすごいことだと思った。ダイアナという人はみんなから愛された人なんだなと思っ た。
またもうひとつ圧倒されたのは、その花束の数だった。ダイアナ妃の住んでいたケンジントンパレスから宮殿の周り、その沿道の歩道の柵、街路樹に至るまで数 百万という花束でうずめられていた。そしてその一つ一つにメッセージが書き加えられていた。「あなたは私たちの心の女王です」「私はあなたを失って寂し い」とか「私たちの天使」とかそれぞれに書かれていた。アジアではこんな習慣はないけれども、人々の心を表わすこんな習慣に感動させられた。花が足りなく て他国から緊急輪入されたらしいが、こんな状態にもかかわらず、けっして花の値段は騰貴しなかった。普通の値段で売られていた。さすがだと思った。なんに しても、ひとりの人の存在がこんなにも人々の心を動かすということに驚嘆をした日であった。

◆マザー・テレサの死◆
葬儀の次の日に、また驚かされたニュースが流れた。それはインドにいるマザー・テレサが亡くなったという知らせだった。つい先日、ダイアナ妃とマザー・テ レサの親しい間柄が伝えられたりしていたのに。本当にこのl週間は驚かされることばかりだ。マザー・テレサといえばインドのカルカッタで「死を待つ人の 家」をつくり、その運動が世界中に広まったという人だ。私はマザー・テレサの運動は先月のオアシスに書いたフランスのサン・ヴァンサン・ド・ボールからそ の底流はつながっていると思う。あるいはその流れの中に、アイルランドのメアリー・エイケンヘッドも入るかもしれない。人類の歴史の中でのひとつの長いホ スピス運動だと思うのである。l967年シシリー・ソンダースがイギリスにセントクリストファーを創った時点をホスピスの始まりという考え方もあるが、私 はホスピスを学んでいくのなら、システムとしてホスピスを捉えるなら、ここ近年の動きを捉えていけば充分だろうと思うけれど、ホスピスマインドを学んでい くのなら、その底流からしっかり学んで行く必要があると思う。マザー・テレサがしたように、どんな人にも平等にケアをしていくこころが大事なんじゃないか と思う。マザー・テレサの運動を受け継いでいけるようになりたいと思う。

◇  ◇  ◇

3日間の興奮も覚めやらぬうち、私は次の日から、シシリーソンダースも参加するホスピス国際会議に参加することになる。
つづく


葬儀の日の夕方の空も悲しみに染まっているように感じた。