第八回



 

半世紀を越えて    ―「月光」の旅 ②

 一九九五年七月十六日朝、私たちは宮崎空港から沖縄に向けて飛び立った。朝日に照らされ青く輝く海、その中に浮かぶ緑の島々が見えてきた。
この美しい海は半世紀前、米軍艦隊で埋め尽くされ真っ黒になった。地上では砲弾の嵐が吹き荒れ、殺し合いや集団自決があり、飢えや病気が蔓延。約二十万人が死んだ。
そんな悲惨な戦争があったとは信じられないほど美しく、穏やかな風景だった。
気温三〇度、快晴。まばゆい日差しの下を歩き始めた。沖縄戦で命を落とした一人の男の姿を探して・・・。

 

山倉兼蔵(やまくら・かねぞう)は、いつ、どこで、どのようにして亡くなったのか。それを知ろうとする理由は私たちそれぞれにあった。
孫であるピアニスト松浦真由美は、身内の最期を直視することに不安を抱いていた。しかし、沖縄行きを決めた時から、なぜ祖父は死ななければならなかったの かを知ろう、「月光」という曲を弾くことで自分に何がもたらされるのかを見届けよう、そんな覚悟のようなものが芽生えつつあった。
NHKディレクターの皆川信司は、数多くの戦争体験者と会い、インタビューを繰り返していた。二十代なりに何かをつかもうと必死だった。
そして私は、自分と戦争との距離の遠さに悩んでいた。資料を読んでも映像を見ても何かが理解できない。その距離を縮めてくれるのでは、と予感させたのが山 倉兼蔵との出会いだった。彼が時代の渦に巻き込まれ、どう生きて、どう死んだのかを知ることを出発点に、戦争を見つめようとしていた。
沖縄に行く二日前、私はこんなコラムを書いている。
「五十年前に亡くなった、ある兵士の最期について、あらゆる手段を尽くして調べている。(中略)戦場で一人の人間がどう生き、どう死んでいったのか。それ を具体的に知ることからしか、私たち戦後世代は戦争の恐怖、残酷さ、醜さを本当には理解できない。この夏、五十年前の彼の姿を追い求める旅に出てみようと 思う」
この時点まで、戦場の山倉は私には遠い存在だった。宮崎県門川町に家族を残して出征したのを最後に、彼の姿は突然見えなくなる。
あの日突然、兵士にされた平凡なサラリーマンはどこに行ってしまったのか。私と皆川は当時の資料を集め、徹底的に調べた。
沖縄で山倉と行動を共にした人がいるはずだ、と彼が所属した中隊三百十九人の生存を一人ひとり確認した。だが、ほとんどの名前は戦没者名簿の中にあった。  ようやく一人だけ見つけた生還者は数年前に死亡していた。生前、親族にも沖縄での体験を一切語らなかったという。
隊の記録をめくる。

「戦斗ノ激烈ヲ極ム、敵戦車及敵機ノ地上掃射猛烈ヲ極メ死傷続出ス」(一九四五年四月四日)
「糧秣欠乏ノ状態、尚発患者多数、弾薬欠乏ノ有様。(中略)大部隊ノ行動、集結ハ困難ニシテ遊撃戦斗ノ目的ヲ達スルコト出来ザルト判断」(一九四五年七月十日)


  上陸してきた米軍に追われ、食糧や武器もないまま山中に逃れた兵士たちが次々と倒れていった様子が浮かび上がる。混乱、狂気、逃げまどう兵士たち・・・。  しかも、その陰には生きた証(あかし)さえ残せず殺されていった沖縄の人たちがいる。
知れば知るほど息苦しくなる。沖縄戦の凄まじさにたじろいでしまう。気が滅入り、一人の男のことなどわかるはずがない、とあきらめかけていた。
そんな時だった。松浦真由美が「こんなものが出てきた」と一通の手紙を見せてくれた。戦後、山倉の遺骨を家族の元に届けた人からのものだ。
これが、不思議な縁(えにし)の始まりだった。

 沖縄に着いた日の昼下がり、手紙の差出人である仲嶺盛文(なかみね・せいぶん)の家を訪ねた。盛文は十二年前に死去。私たちを待っていてくれたのは妻のツルだった。

仲嶺盛文の妻。盛文が山倉兼蔵の遺骨を送ったことは知らなかったが、當眞嗣長につないでくれた。


 松浦真由美が手紙を見せ、「ご主人が祖父の遺骨を送ってくださったことに感謝します」と話すと仲嶺ツルは静かな口調で言った。「主人は情が厚く、よく人 の世話をしていました。やると決めたら徹底的にやる性分です。自分は兵隊に行っていないという負い目もあり、山倉さんの遺骨を送るのは当たり前だと思った のでしょうね」
しかし、なぜ盛文は山倉の遺骨送りをすることになったのか。以前、私が電話で問い合せた時、ツルは全く知らなかった。もしかしたら…と思い当たったのが盛文の日記だった。

仲嶺盛文の日記。この中に「山倉兵長」の記述があった。


几帳面な盛文は、戦時中は防空壕の中で、終戦後の混乱期も日記を書き綴っていた。ツルはその日記の山を私たちの目の前に持ってきた。手分けしてめくり始めたその時、電話のベルが鳴った。
「山倉さんのことが日記に書いてありました」
沖縄本島中部にある恩納(おんな)村の當眞嗣長(とうま・しちょう)からだ。
私たちが訪問するということでツルは数日前、恩納村遺族会の當眞に日記を託した。その當眞が、山倉についての記述を見つけたというのである。
山倉兼蔵の「その後」がわかるかもしれない。私たちの胸は高まり始め、ツルの配慮に感謝しながら慌ただしく當眞の家に向かった。

 當眞嗣長の自宅に着いた時は、すでに薄暗くなりかけていた。「ご苦労さまです」と私たちを迎えた當眞は、盛文の日記を前に説明を始めた。
最初に「山倉」の文字が出てくるのは一九四九年十二月六日  安富祖よりのかえりがけ瀬良垣により山倉兵長の骨を見る。早速手紙を送らう山倉の妻アキノが兼蔵の遺骨だと確認したのだろう。半年後の一九五〇年六月七 日の日記には山倉あきの氏より手紙きたる。瀬良垣の遺骨はたしかに山倉氏だ。送ってあげよう。神様のめぐみ有難し。こうしてさびしい人、苦しんでいる人を なぐさめて、はげましてあげるのは何と有難い事であらう。よしよし、うんと御世話してあげ様う。
當眞によると、戦後になり、各地域に散在している戦没者の遺骨を収集するよう沖縄群島政府から命令があった。恩納村でも遺骨収集が行われ、氏名のわからな い人のものは全部まとめて一カ所に納骨したが、身元のはっきりしている人の遺骨は確認して家族の元に送ることになった。
山倉の場合、住所や氏名がわかっていた。それを知った仲嶺盛文が家族の元に送り返そうと努力したのだろう、という。
松浦真由美は言葉もなく、盛文の日記をじっと見つめていた。その横で當眞はつぶやくように「山倉さんは幸せだと思いますよ」と言い、こんな話を始めた。
「沖縄で戦死したのは、家族にとっては本当に残念なことですが、遺骨が全部帰ってきたのは非常にありがたいことです。沖縄の人間でありながら遺骨がありま せん。そんな人がたくさんいます。仲嶺先生の一番末の弟も、どこで戦死したのかも全く分かりません。見た人もいなければ、遺骨もありません」
実は、當眞の父親も沖縄戦で戦死している。嵐の時に高波で流され遺骨はない。その場所で石を拾い、墓に安置してあるのだという。
盛文も當眞も戦争で身内を亡くしていると聞き、私の中で何かがつながったような気がした。
懸命に手を尽くして山倉の遺骨をふるさとへ送り出した日、盛文は日記に「つつがなく山倉氏よ、宮崎のなつかしきわが家へかえり給へ」と書いた。家族の元に 届いたのを知った時は「ほんとうによかった。神の大いなる恵みに感謝あるのみ」と自分のことのように喜んでいる。
そして半世紀後、當眞も沖縄戦の犠牲者である山倉兼蔵をいたわり、孫の松浦のために尽力しようとしていた。「日記によると、山倉さんは瀬良垣で亡くなって いますので、地元の区長さんや老人クラブの方々に調査をお願いしておきました」と、すでに次の手を打っていてくれたのである。
このつながりは、さらに人と人とを結びつけ、私たちを半世紀前の戦争へと導いていくことになった。

 翌日、瀬良垣公民館。そこで私たちは予想もしなかった人と出会う。
當山安昭(とうやま・あんしょう)。当時十八歳。山倉兼蔵の遺体を見つけ、埋葬したという。
素朴な人柄の當山はとつとつと、山倉が命を落とした「あの日」のことを昨日のことのように語り始めた。

■當山安昭の話
山倉さんが戦死したのは五月二十三日ぐらいです。時間は午後五時ごろで、雨が降っていたと思います。
私たちが避難小屋から谷間に移動する時に米兵が発砲してきました。私たちが見つかったのだと思いましたがそうではなく、兵隊の服を着て恩納岳からの通 り道を上ってきた山倉さんを、待ち伏せしていた米兵が狙っていたのです。
頭を撃たれ、鉄兜を貫通していました。丸めて背負っていた毛布は血だらけでした。
日が暮れてから、私の兄が中心になって四人で遺体を運び、グラマンが爆弾を落としてできた深さ約二メートルの穴に葬りました。私たちもいつ殺されるかわからないので仮埋葬です。
山にそのまま葬っているのは気の毒だから近くに安置しました。仲嶺先生に「葬っている方がいます」と話をしたら「家族の元に送ろうではないか」ということになったのです。
山倉さんの部隊には当初三百人ぐらいいましたが、戦死して一人減り二人減りしていきました。恩納岳に集結しているところをアメリカ軍に攻撃された時は、かなりの戦死者が出ています。そのあとは七、八人ずつで行動していたようです。
山倉さんが亡くなって四日後にアメリカ軍が掃討戦で一斉攻撃してきました。その時に、ほとんどの兵隊さんが亡くなりました。撃たれた人が死ぬ 前に「班長~」と叫んでいたのを思い出します。昨日のことのようです。
私たちが葬ったのは山倉さんだけです。自分たちも危なかったので、ほかの人たちは埋葬していません。  山倉さんは家族の元に帰れて本当に良かった。

 セミの鳴き声がこだまする恩納岳。ここは今、アメリカの軍用地になっている。小道から少し入ったところに當山安昭が車を止めた。
「今は整地されていますが、この辺りに山倉さんは倒れていました」
松の木の根元を地元区長の親泊一元がスコップで掘り始めた。
松浦真由美は自宅から持ってきた卒塔婆を穴の中にそっと置く。線香に火をつけ、手を合わせた。
山倉兼蔵が息絶えた赤土の上に涙がこぼれた。草が静かに揺れている。
「祖父がお世話になった方とお会いでき、五十年後にまた孫の私がお世話になるなんて...」
松浦がそう言うと當山は小さな声で答えた。「お互い様です」 セミの鳴き声に交じって、山の向こう側に撃ち込まれる砲弾の音が遠雷のように響いていた。

ついにたどり着いた山倉兼蔵の最期の地(恩納岳)で供養する孫の松浦真由美。そのうしろで
当時、山倉を埋葬した當山安昭(左)がそっと見守っていた。

 供養の後、恩納岳のふもとに来た。遠くに見える海を眺めながら當眞嗣長は言う。  「五十年前の海はもっときれいでした。午前十時ごろの晴れた日の海は七色に光っていました」
その海をアメリカ軍の軍艦が二重三重に取り巻いた。そして、忘れられない光景を目撃する。「日本の特攻機が突っ込んで来て爆発するのです。山の上から何度も見ました。異様な感じです。何とも言えない気持ちになりました」
地上には艦砲射撃の砲弾が雨のように降り注いでくる。五月中旬の恩納岳の戦闘はまる二日間、昼夜ひっきりなしに続いた。
日本軍が十発撃ったらアメリカ軍は百発撃つ。「物量の差はどうしようもなかった。これは駄 目だなと思いました」それでも日本は戦いを止めない。沖縄の人たちも巻き込んでいく。
「戦時中、毎週金曜日に小学三年生以上は少年団訓練があり、銃の扱い方も習いました。十六歳になると護郷隊に入ります。少年ゲリラ隊です。軍服を着て、銃 を持たされ、徹底した軍国教育をされました。沖縄で戦死者が多いのはそのためです。爆弾を持って戦車に突っ込むのも当たり前。天皇陛下のためでした」
 當山安昭も口を開いた。「私の甥は二十一歳でしたが、沖縄出身の青年は戦車に体当たりしなさい、と言われました。爆弾を持ってタコ壷に入り、戦車が来たら体当たりする人間爆弾です。自爆したのか殺されたのか分かりません。遺骨もなく、石を拾って葬りました」 私たちはただ黙って聞いているしかなかった。

當眞は最後に言った。
「沖縄戦はすごい戦争でした。まさにこの世の地獄です」

この日、松浦真由美は恩納村の小学校でベートーベンの ピアノソナタ「月光」を弾いた。 彼女のピアノは、音楽室の窓に広がる海にまで響き、青いきらめきの中に溶けていくような透明感があった。祖父だけではなく、ここで犠牲になったすべての人 たちへの彼女の深い思いを感じながら、私は縁の不思議さを思わざるを得なかった。

恩納小学校の子どもたちを前に「月光」を弾く松浦真由美。窓の外に広がる青い海に静かに
響いていった。



一通の手紙だけが唯一の手がかりだった私たちが盛文の日記と出合い、ツルから當眞、そして當山と絶妙なタイミングで結びつく。そして、たどり着いた先は山倉兼蔵の最期の地。その途中で語られていく戦争の悲劇。
山倉の魂は、私たちを沖縄に招き寄せ、いくつもの縁を結び、何かを伝えようとしていたのかもしれない。
遠くに思えていた戦争は、「月光」の響きに乗って私に近づいてきているのを感じた。 

(つづく)