第ニ回
五年間温めていた企画がようやく実現した。二月上旬に開いた「明治大学所蔵『内藤家文書(もんじょ)』の世界」である。古文書をテーマにした地味な講演会だったが、予想をはるかに超える約二百人の聴衆で客席はいっぱいになった。
 私の住む宮崎県延岡市は、明治維新までの百二十五年間、譜代大名の内藤家が治めた。内藤家は約四万五千点という膨大な史料を残した。質、量 とも全国トップクラスといわれるこの文書群を一括して永久保存しているのが、東京・神田駿河台にある明治大学刑事博物館である。 内藤家文書に引き付けられてーというより、この文書に関わる学芸員の人間的な魅力に引かれ、「延岡の貴重な遺産を大事に守り、公開に努めているこの人たち を紹介したい」と思い続け、今回の講演会を実現させた。
  今、四十代最初の企画を終えてホッとしながら、二十代後半から三十代半ばにかけて仲間たちと「地域づくり」だの「文化支援」だの叫び、コンサートや演劇公演、祭りと慌ただしく駆け回った時代は無駄 ではなかったのでは、と思い始めている。
  出会った魅力的な人にこだわり、しぶとく播いてきた種が少しずつ芽を出しつつある。そんな予感を感じているからかもしれない。
  そして、ピアニスト松浦真由美との十二年間を振り返った時、あの日々は、それぞれが夢を抱き、現実とぶつかりながら行動し、その中で出会った魅力的な人たちと共に進む方向を手探りしていた時間だったのではないか、と思えるようになってきた。

 出会った当時、松浦真由美は迷っていた。「私は音楽で何ができるのだろうか。どうしたら人の役に立てるのだろうか」と。
  武蔵野音楽大学を卒業後、郷里の日向市に戻り、短大のピアノ講師を務める傍ら、音楽祭出演やグループでの演奏活動などを積極的に行っていたが、飽き足らな いものを感じていた。私は何気なく言った。「あなた自身が動いて演奏の場を広げ、その中から見つけていくしかないよ」。  彼女はすぐに障害者施設を訪ね、音楽クラブの指導を買って出る。次に会ったら「ひらひらのドレスで『勘太郎月夜』を演奏したら、すごく受けてね」と笑 う。私が彼女の生き方に関心を持ったのは、この時からだった。
「とにかくやってみよう。失敗したら、またやり直せばいいじゃない」という松浦真由美の楽観的な考え方と潔さ、人と人をつなぐことが好きだという私の習性が結びつき、さまざまなコンサートを生み出した。 ベートーベンのピアノソナタを中心にした二回のリサイタル。知的障害のある子供たちが通 う養護学校での五回の学校コンサート。そして「にじいろ音楽会」…。  特に彼女がこだわったのは、障害のある子供たちを対象にしたものだ。その原点は県立延岡南養護学校での学校コンサートにある。
  十二年前の夏、養護学校の体育館で子供たちに取り囲まれた松浦真由美は、子供たち一人ひとりに語り掛けるようにピアノを奏で、一緒に歌った。静かな曲には 集中してじっと耳を傾け、アップテンポの曲では全身を弾ませる子供たち。体全体で、心の耳で受け止めているように見えた。

  私は当時、障害児のことは何も知らなかった。それだけに子供たちの素直な反応は新鮮な驚きだった。音楽の持つ力なのだろうか。障害があろうが、なかろうが、いい演奏は人を引き付けるし、言葉よりもっと深く語り合えるのではないか。そんな予感がした。  コンサートを終えてからすぐ松浦真由美と私は夢を描いた。
「この温かな雰囲気をコンサートホールに持ち込み、素晴らしい音響の中で音楽を楽しむ機会はつくれないだろうか」。
ちょうど私は連載企画「文化ホールはまちをつくるのか?」に入り、各地に次々と建つホールが本当に地域の活性化や文化向上につながるのか、住民の役に立つものなのか、という疑問を紙面 にぶつけていた。 障害児の母親のつぶやきも聞こえてきた。
「日ごろ、子供と一緒にコンサートに行く機会はありません。周りのお客さんたちに気兼ねせず、子供も大人も楽しめる体験がしたい」。  私たちは行動に移すことにした。  松浦真由美はすぐに、こんなプログラムで、共演者はこの人にお願いしよう、ドレスはこんな感じ、照明はこうしよう、と構想を描いた。それを私が企画書にまとめ、実現に向けて動いた。しかし、その時は断念した。翌年も見合わせた。そして次の年も…。
「とにかく学校コンサートを続けよう。いずれ、きっと実現できる時が来るはずだ」。そう言いながら、彼女は子供たちとのコンチェルトを着実に続けた。

 そして五年後、彼女のひと言が流れを一気に変えてしまう。
一九九二年十一月の五回目の学校コンサート終了直後、養護学校の保護者を前に「次はホールで開こうと思っています」と宣言したのである。いきなり、であっ た。松浦真由美はコンサートを繰り返す中で手応えを感じていたからだ、と言うが、私は事前に聞かされていなかった。彼女らしい決断ではあったが、ホールで やれるという確証は全くなく、私は焦った。
その三日後、私は市民オーケストラの出演交渉に走った。障害児の親たちに集まってもらい企画を説明。私の勤める新聞社と企業の文化財団に資金協力を依頼 し、ホールの共催も取り付けた。実行委員会立ち上げまでに約二カ月。あまりにも準備期間が短く、説明不足もあって、かなりもめた。ステージ構成だけでな く、コンサートに対する基本的な考え方のズレから松浦真由美とオーケストラ側の意見が対立してしまう。私は彼女に「そこまでぶつかるなら、あなたを外す」 とまで言う。実行委員長の私は焦るあまり、このコンサートをずっと温め、子供たちへの思いを誰よりも深く抱いてきた彼女を孤立の道へ追いやる方向へ走りか けたのである。さらに本番二カ月前、私が宮崎市の支社へ突然の転勤。車で二時間走って打ち合せをして夜中に帰り、翌日仕事をして、また車で走る、という毎 日を送らざるを得なくなった。“きしみ”の連続だった。私も、松浦真由美も、オーケストラも、ホールも、障害児の親たちも、ボランティア団体も、文化財団 も、そして新聞社も、初めての試みに身構え、意見をぶつけ合ってギシギシときしんでいた。今考えると、あの対立は、関わった人たち一人ひとりがコンサート を真剣に考え、いいものにしたいという思いの表れだったのではないかと思う。
最終的には総力を結集して一九九三年六月二十七日、「にじいろ音楽会」は幕を上げた。  ピアニスト松浦真由美と延岡フィルハーモニー管弦楽団が共演し、客席は障害のある子供、ない子供、その親たち、障害者施設の利用者、在宅障害者など七百 人以上で超満員になった。客席ではさまざまな出来事があった。初めて会った自閉症児と演奏中ずっと手をつないでいた男の子。心配されていた発作も起こさ ず、立ち上がって体を揺すっていた女の子。ステージの前で指揮していた男の子もいた。私たちが予想していなかった出会いがあった。
  人と人との出会いの中で生まれた「にじいろ音楽会」は、子供たちに音楽の楽しさと参加する喜びを味わってもらう機会になった。それは、あの時、彼女がいきなり宣言しなければ、なかったことかもしれない。
翌年の第二回音楽会から毎年参加することになるバイオリニスト古澤巌との出会いもそうだった。私が新聞で初めて古澤巌について知り、そのことを彼女に話し た時、「今すぐに彼と連絡を取って!」と私を急かした。さらにCDを聴いて「この人はおもしろい。会ってみたい」と言い始め、彼女は彼宛てにラブレターの ようなものを書く。私が事務所に音楽会への出演を打診。高知のコンサート会場に出向いて古澤巌と直接交渉…。
  そして、ピアニスト松浦真由美は一人の音楽家として、バイオリニスト古澤巌と対等で渡り合うステージを子供たちの前で展開することになった。松浦・古澤コ ンビでの演奏は一昨年の第六回まで続く。私が最も忘れられないシーンがある。それは、この第六回にじいろ音楽会のフィナーレだ。いつものように客席は、宮 崎県北部の養護学校と小中学校の障害児学級に通 う子供と先生たち、障害者施設の利用者ら約八百人で埋まり、クラシックコンサートとは思えないにぎやかな盛り上がりを見せていた。予定されていたプログラ ムが全て終わった後、ステージ上に出演者全員がそろった。松浦真由美がピアノの前に、その横にフィリップ・ブッシュが座る。古澤巌がバイオリン、ポール・ コレッティがビオラ、フランシス・グトンがチェロを構える。そして“あの歌”を全員で演奏し始めた。
彼女の透き通った歌声がホールに柔らかく響いた。客席の子供たちも大きな声で歌う。

夕日が背中を押してくる
真っ赤な腕で押してくる
歩くぼくらのうしろから
でっかい声で呼びかける

 養護学校のコンサートで毎回最後に松浦真由美が子供 たちと歌っていた「夕日が背中を押してくる」である。聴きながら私の頭の中には、小さな体育館で古いアップライトピアノを囲んだ子供たちが、彼女の語りか けにうれしそうに返事をしたり、膝を抱えてじっと演奏に耳を澄ませている姿、立ち上がって体を揺らしながら大きな声で歌っている場面 が鮮明によみがえってきた。
会場は大ホールに変わったが、彼女の思いは、今だにあの小さな学校コンサートでの子供たちとのふれあいの中にある。それを彼女はフィナーレの瞬間に鮮やかに見せてくれた。

 このステージは彼女にとって、一つの区切りでもあっ た。昨年の第七回音楽会で彼女は客席にいた。緊張感に満ち、後ろから追いまくられるような慌ただしい日々は過ぎ去った。私も今は音楽会という形から離れ、 地域の中で障害児の療育がどのように行われ、問題点は何かを学び、その望ましい在り方を探る勉強会を専門家たちと続けている。
しかし、彼女も私も音楽の力を信じながら、次の展開への静かな予感も感じている。  松浦真由美は以前、音楽雑誌に次のように書いた。
「不器用な私ですが、ピアノを弾き続けることで、私自身がいろいろな方々と出会い、その人たちと音楽を楽しみ、少しでも多くの人たちにさまざまな形で音楽と出会ってもらう機会を増やしていきたい。力まず、ゆっくりと成長できたら、と思っています」
「そして、いずれは国籍の違う、言葉も違う国の子供たちのところへも行って小さな音楽会を開きたい。音楽にはどんな力があるのか。これからも冒険(チャレ ンジ)していきたい、と思います」 今読み返すと、この文章には、もしかしたら彼女の予感が秘められているのかもしれない。再び彼女が「やってみよう」と言い始める日は来るような気がしてな らない。その日はまた突然やって来て、私はまた焦りながら東へ西へバタバタと走るのだろう。ま、それもいいか、と思う。