第三回



 

 三月初めとは思えないほどの暖かな土曜日の昼下がり、九鬼勉(くき・つとむ)と延岡城跡を散策した。
宮崎県北部に位置する延岡市は、この時期、高千穂から吹き下ろす寒風が五ケ瀬川沿いに一気に駆け降り、市街地の真ん中にある城山に吹き付けるのだが、彼と久しぶりに会ったこの日に限っては、ほとんど風はなく、暑いくらいだった。
私たちの目の前には、四百年前に造られた高さ二十二メートルの延岡城の石垣が日差しを浴びて輝いている。「千人殺し」という物騒な名前のこの石垣の横では、江戸時代に造られた井戸と排水路が発掘され、石積みの美しさを見せていた。
そこかしこにツバキの紅や白の花が鮮やかに咲き、木々の間から鳥のさえずりが聞こえてくる。  この静かな城山が大きく揺れた時期があった。九鬼勉は市職員でありながら市政に立ち向かい、私は紙面 で彼らの闘いを伝えた。
あの時の私たちの情熱は何だったのだろうか。彼は答えた。
「物議をかもす、ということだったのかな。大切なことだと思う。いろんな意見が出ずに、まどろんでいる状態はダメだね」  そうだったのかも知れない。この山をめぐる闘いだけでなく、私自身の活動や仕事を振り返った時、「物議をかもす」という言葉が一番ぴったりくるような気 がした。

 九鬼勉が私に「城山についての勉強会を開こうと思う」と声をかけてきたのは一九九一年の七月だった。
今さら、なぜ、と思った。城山のふもとで生まれ育ったせいか、私にはあの山は空気のような存在であり、ほとんど関心はなかったが、とにかく彼の家に行ってみた。そこには彼を含めて四人の市職員、建築デザイナー、彫刻家…三十代から四十代の男がいた。
彼はおもむろに「九鬼の主張」と書いた資料を配り、語り始めた。
「市は延岡城跡に天守閣を造ろうとしている。歴史的に見て、あそこにそんなものはなかった。虚偽の天守閣を造ることは市民をあざむき、子供たちにウソを教えることになる」 行政内部からの反乱である。
当時、延岡市は国と県の補助を受け、十年間で総額約三十億円を投じる城山整備事業に着手。その目玉 が天守閣風展望台計画。
工業都市として突っ走り、歴史を切り捨ててきたこの街が景気低迷と人口減少にあえぐようになり、ついに見つけた地域活性化策が皮肉にも城山開発だった。
「あそこには石垣しかないじゃないか。城にはやっぱり天守閣がなくっちゃ」と、街のシンボルとして天守閣らしきものを造り、観光客が来てくれたら…市民の間にもそんな声は根強くあったが、それを九鬼は否定した。
しかし、彼はやみくもに「反対」と言っているのではなかった。
まず市民にとって城山とは何なのかを考え、そして城山の歴史や動植物の調査研究を行い、十分に議論した上で、納得ずくで取り組めば、市民は城山を愛し、大切にし、誇りを持つのではないかーと主張しているのである。
それは、まちづくりは住民自ら主体的に取り組むべきだ、という私の主張と同じだった。  その頃、私は「ふるさとおこし~地域振興を考える」という連載に没頭していた。
書き出しはこうだ。
「総合的なプランがないままのハードなモノづくり、派手さばかりで中身の薄い催しの積み重ねは、地域の個性を失わせ、住民の主体性までも奪ってきたのではないか」
何のためか、だれのためなのか分からないホールを次々と造ったり、カネをかけ人集めのイベントをして、これが地域の活性化だ、とする流れが納得できなかった。
九鬼勉が私に声を掛けてきたわけが分かった。私に自分と同じ臭いを感じたのである。物議をかもす人間の臭いを…。

 私たちは毎週、勉強会を開いた。
木造で城の復元をという建築家、自然を守るべきだという版画家、行政の一方的なやり方が気に食わん、という私のような人間もいた。全員が九鬼勉に同調したわけではなく、城山を愛しているという者ばかりでもない。
さまざな思いが入り交じった“ごった煮集団”だったが、私たちは歴史を学ぶ中で天守閣建設の問題の大きさに気づいてきた。計画をストップさせなければ、という声も高まってきた。
しかし、その時に分かったのは、あまりにも時間がない、ということだ。市は翌年、約一億円かけて大手門を建設する。城山整備事業が本格的なスタートを切るのである。  九鬼勉は提案した。「専門家を招いて講演会を開いてはどうだろうか」。市民団体に協力を呼び掛けるなど急に慌ただしくなってきた。
そして、勉強会を始めて四カ月後の十一月、十六の市民団体が共同主催する「城山講演会」が実現した。
それが「物議」以上の驚きを市民に与えるものになるとは、九鬼ですら予想もしていなかった。
「近世城郭としては理想的な形。非常に筋がよく、全国的に見ても高い価値を持つ」-講師の千田嘉博の発言は、私たちの城山観を一変させた。
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の考古学研究部助手。二十八歳の城郭研究者。彼は“石垣しかない山”を一瞬にして“宝の山”に変えてしまったのである。
さらに、全国各地の城跡整備の成功例と失敗例をスライドで示しながら、「考古学的な調査に基づかない城の復元や整備はすべきではない」と言い切った。
翌日、私は紙面のほぼ一ページを使って報道し、講演の中身を十五回にわたって、つぶさに書いた。
手ごたえはあった。市民の間に「城山は貴重な歴史遺産」という認識が広がり、闇雲な開発をNOとする声が上がるようになってきた。ただし、役所の中は別 だった。講演会から一カ月後、市長は市議会で「城山に天守閣があったかどうかは分からないが、展望台は造る。造る予定で進めている」と断言したのである。
国からの補助金目当ては明らかだ。計画通り城山を開発型で整備すれば補助率は高いが、史跡として史実に基づいた整備をするのであれば補助金はほとんど出ない。  九鬼勉は新聞紙上で反論した。
「平成の時代の都合や思惑によって、後世に誤った歴史を伝えるようなことがあっては断じてなりません。それほどまでに、歴史とは深く重いものであることを自覚すべきです」  講演会の効果は出てきた。市はすぐ千田嘉博に依頼して城山の調査を開始したのである。私たちは、次の段階は発掘調査が行われ、ちゃんと史実に基づいた整備に方向転換するのだろう、と喜んだ。しかし、その読みは甘かった。
大手門建設を急ぐあまり、市は千田の調査結果も待たずに設計入札を行った。計画は着実に進んでいた。
千田は怒った。私はインタビューを行い、八回にわたって掲載した。
「延岡市はシンボル的なものを造る路線に邁進してしまっている。“ハコもの”よりは、城道や石垣など今あるものの整備が先なのではないか」
ハード優先の行政を厳しく批判し、「まちづくりという崇高な理念を掲げる前に、延岡市は足元から見直した方がいい」と皮肉を込めて語った。
こんなことの繰り返しだった。市の担当者は調査の大切さはよく理解している。歴史的な空間を都市公園化しようとすることの矛盾にも気づいている。しかし、せっかくついた国の予算を消化しないとまずい、ということでゴリ押ししているのである。
「大手門事件」の次に起こった「石段事件」も、この行政の体質がよく表われたものだった。市は、市民や専門家で整備検討委員会を発足させた。そこまではよ かったのだが、城山に歴史上なかった石段を造るという当初の計画を進めるため、委員会にはからずに設計を業者に発注したことが明るみに出た。今度は整備検 討委員会が怒った。
石段の設計発注事件と委員会の憤慨ぶりは、スクープ扱いで一面トップを飾る。それまで黙っていた市民からも市を批判する投書が続々と届いた。

その二カ月後の整備検討委員会。助役は冒頭こう話した。
「城山の整備基本計画をもう一度見直したい。当初考えていたスケジュールよりもかなり時間をかけて、後世に遺恨を残さないよう整備していきたい」。石段も「市民から要望が出てきた時点で着工する。今のところ着工は考えていない」と計画変更を明らかにした。  事実上の凍結宣言であった。

 城山は静けさを取り戻した。かつて眼鏡の奥に鋭い光を漂わせ、しかめっ面 をしていた九鬼勉の表情は、すっかり穏やかになっている。
あの物議をかもした講演会から七年後、城山は歴史公園としての整備に方向転換された。市は新たに保存整備計画を策定し、それに基づいて地道に発掘調査が行われ、道や石垣の復元が行われるようになった。
そして一昨年、「史跡・延岡城跡」として市の文化財に指定。最終的に国指定を目指すという。  彼は城山を歩きながらつぶやく。
「俺にとって国指定になるかどうかよりは、みんなが歴史を勉強したり、自分たちの街を見直す過程の方が大事だと思うよ。これからだよね」  穏やかな彼の声が、石詰みの跡に消えていった。