ホスピス旅日記’97 ⑨

前回までのアメリカでの「旅日記」について帰国以来、多くの人からその感想を聞かせていただいた。私にしてみると、どうにかやっと書いた文章であったので、以外にも多くの人から反応を聞かせていただいて感謝している。
このあと今度は少しスタイルを変えてヨーロッパの旅について書いていこうと思っているので、読者の方がどんなふうに感じられるか不安なところだ。
約1ヶ月弱のヨーロッパの旅だったが、とても1、2回では書ききれないと思うので、3、4回に分けて書いて行きたいと思う。
この中で私は、例えば「ホスピス」というか、あるいは「旅」というか、そういう彫像が仮にここにあったとすると、ライトを少しずらせ、少し違った方向から 光を当てて見、それをデッサンできたらと思っているところ。それによつてなにかこの旅の本当の姿に近いものを画き表せないかと願っているところである。
◆ヨーロッパへ◆
さて8月20日、私はアメリカのシアトルを発って、ヨーロッパに向かった。私の乗った飛行機はニユーヨーク経由でスイスのジュネーブに入っていった。
このヨーロッパの旅の自的はジュネーブで古い友人を訪ねること。ロンドンで国際ホスピス会議に参加すること。フランスのホスピスの歴史にかかわる場所をお とずれること。アムステルダムで新しい友人に会うこと。アイルランドで世界で最初に生まれたというホスピスを訪問することなどだった。これだけを1ヶ月弱 でするには、かなりハードだったが、その分アメリカの7ヶ月に見合うくらい密度の濃いものになった。
途中、エピソードなどを織り混ぜながら書いていきたい。なお、これから登場する個人名については、本人のプライバシーのこともあると思うのですべて仮名を用いることにする。


◆岡村昭彦のこと◆
ところで今度のヨーロッパの旅では今まで何度か引用したことのある岡村昭彦の「ホスピスへの遠い道」(春秋社)という本が私のもっとも良いガイドブツクになった。
ここで岡村昭彦という人を簡単に紹介しておこう。1960年代から70年代にかけてフリーランスの写真家、ジヤーナリストとして「LIFE〕誌などと契 約、ペトナム戦争やビアフラの独立戦争を取材し、晩年にはバイオエシックス(生命倫理)とホスピスいうテーマに精力的に活動を展開、雑誌「看護教育」に 「ホスピスへの遠い道」を連載。センセーションを巻きおこした。1985年、病いに倒れ急逝した。

「ホスピスへの遠い道」はホスピス発祥の過程と19世紀アイルランドのホスピスの世界最初の創設者メアリー・エイケンへッドのことをアイルランド、フランス、オーストラリア等各地に取材し、大きな視点でホスピスの歴史を表わそうとした。
他に彼のホスピス関係の本では「ホスピスケアハンドブック」(シシリー・ソンダース他著〉や「ホスピス」(ビクター・ゾルザ他著)の監訳がある。


筑摩書房から岡村昭彦集が出され「ホスピスへの遠い道」はその中に収められているが絶版になっている(現在は春秋社より再版されている)少し読みにくさは あると思うが、非常に示唆に富んだ本だと思うので、興味のある方はご一読されると良いと思う。彼の影響は今も多くの人の中に認められる。
さて、この私のヨーロッパでのホスピスの旅もところどころで彼の文を引用しながら書ぎ進めたいと思う。なお「ホスピスへの遠い道」は以後「遠い道」と略す。


◆1995年、オーストラリアでのこと◆
「遠い道」の中には全部で4つの地図が載っている。オーストラリアのシドニーとフランスのリヨン、アイルランドのダブリンとエイケンヘッドの生まれたコークとである。
私は2年前の「生と死を考える会」(市民ホスピス・福岡の前身)のホスピス研修ツアーでオーストラリアのシドニーを訪ねているので、今回のヨーロッパの旅で図らずもそのすべてを訪ねることになった。
2年前のシドニーではこんな風であった。
「遠い道」の中には地図と一緒にこんな風に書いてある。
「まず地下鉄に乗ってKing's Cross駅に行こう。改礼口を出て右手のエスカレーターを昇れば、にぎやかな商店街のDarlinghurst Roadに出る。・・(中略)・・その隣の簿いグリーンに塗りつぶされた三階建ての建物が、聖心(みこころ)ホスピスである」

私はあの時、ホテルに向かうバスの中で、ホテルに着いたらこの地下鉄の駅までどうやって行こうかななど考えながらバスに揺られていた。ホテルに着いてみる と、そこはなんと〝偶然にも〟 King's Cross駅だったのである。さっそくホテルに荷物を放り込んで、この道順に従って聖心ホスピスを訪ねたことがある。この聖心(みこころ)ホスピスとは、 今から約120年前の1880年代に世堺で2番目に生まれたホスピスである。

岡村昭彦はまるでだれかがこうして彼の書物を片手に訪ねて来る者があるのを知っていたかのように感じられる。今度のヨーロッパの旅でも幾度もこんな〝偶然に〟 に出会った。

◆なつかしいジュネーブの街◆
さて、長い前置きはこのくらいにして、
現実の私の旅に戻ろう。ジユネーブの街は昔、10年ほど前に1年半くらい住んでいたことがある。
空港に着くとこれまで英語だったものが、周りがすべてフランス語に変わった。このフランス語の響きが何とも言えずなつかしかった。たくさんの言葉を忘れてしまっているが、そのなつかしい響きに聞き入って心地良かった。
空港からバスに乗って市の中心地コルナヴァン駅の方に向かった。アパートやビルにはどこも壁や窓に古い彫刻がほどこしてあり、同じ西洋社会でもアメリカと はまったく違った雰囲気をかもし出している。長い歴史の重みだろうか、私はその重みに非常に落ち着きを感じた。アメリカはそしてシアトルは美しいが、やは り百年か二百年の新しい街である。このジュネーブはシーザーの「ガリア戦記」にも出て来るくらいだから、二千年を越える歴史がある。(数年前にその頃の遣 蹟が発見され、今発掘が続けられていた)


◆ジュネーブの紹介◆
ジュネーブはヨーロッパ最大の湖、レマン潮畔の東端に位置し、人口は20万か30万くらいの小さな街である。しかし、この街には100を越える各種の国際 機関があるため、非常に国際的な都市である。街を歩いている人も黒人、アラブ人、黄色系の人、白人その他とバラエティに富んでいる。
この街は小さいながら世界に影響を与えた人たちが多く排出している。16世紀にカルヴァンはこの街を宗教改革の拠点とし、プロテスタントのローマとした。 18世紀に世界に思想的影響を与えた「社会契約論」、「エミール」を書いたルソーが出た。そして19世紀、国際赤十字を創設したアンリ・デユナンを生んだ 街である。この国際赤十宇の本部がジュネーブになったことから、その後この街には数々の国際本部が置かれるようになったのである。国際連合のヨーロッパ本 部、ILO、WHO、UNICEF、GATT等々である。また130メートルまで上がる世界最大の噴水というのもジュネーブの名物としてレマン湖の中にあ る。

◆友人たちのこと◆
あの当時、友だちも数人いた。しかし長い年月が経っているので彼らが今どうしているかを知らなかつた。
思えば、その頃の友だちは結構バラエテイに富んでいた。銀行員、コンピューターグラフィックのアーチスト、教会で歌っている人、語学学校のディレクター、 レストランのウエイターなどだった。10年も経っているとみんなそれぞれに運命によっていろいろな道へ行っているもので、ジュネーブに着いてから昔の住所 や電話帳を頼りに披らの消息をたずねた。教会で歌っていた人はバカンスでハンガリーに旅行中だった。ディレクターはスペインに移り住み、アーチストは ニューヨークに行ってしまっていた。それでも久しぶりに話をしたくてジュネーブから、ニユーヨークに電話をかけた。彼は大の日本愛好家で一時日本にも住ん だことがあり「今度日本で会おう」という話しになった。

昔、一時アパートを一緒にシェアしていたことのある銀行員のステファンは、住所が変わっていたとはいえ、再会することができた。当時彼の結婚問題にも関 わったことがあって、彼の家でその妻もまじえてその頃のことをなつかしく語り合った。次の日は子どもたちも一緒に公園に行って遊んだ。


昔、往んでいた下宿のおじさんとおばさん(と言ってもジュネーブ大学の先生だが)ずいぶん世話になったのでお会いしたかった。お家に訪ねていった。少しも変わりなかった。一緒に食事をし、そしてかれらがフラシス領内に別に建てた家に案内してくれた。
ジュネーブからは車で10分も行くと国境に着く。EUになってからはまったくのフリーで国境には係り官さえいない。
この辺にはこんな風にスイスで働いてフランスに住むという人が結構多い。なぜならフランスの方が物価が安く、給料はスイスの方がいいからである。このジャンナン氏も老後に備えてフランスに家を用意している訳である。
植物の好きなジャンナン氏は庭中に花を植えていた。岡の上の見晴らしの良い場所にある家からはジュネーブの街を見渡すことができた。


◆WHOを訪ねる◆
ステファンの親友がWHOに働いているというので、訪ねてみようと思った。WHOは疼痛コントロールの指針を世界へ向けて示しているということでもあり、ホスピスとは関わりの深い所だ。今後のネットワークの為にもWHOとは直接につながりを持っておきたかった。
WHOの本部は緑の多いAvenue de la paix(平和大通り)の国際機関の立ち並ぶ突き当たりにある。


ステファンから聞いていたビルとそのオフィスを探し当て、ソフィアというその友人に会った。彼女は私を係の人に紹介してくれて、そして少しお話しをした。 あいにく癌関係の部門はフランスのリヨンに本部が移ったということだったが、その方はもう自分には必要ないからと言ってWHO発行の本を私にゆずってくれ た。その後、図書館へ行き、疼痛緩和に関するビデオを見せていただいたりした。ソフィアとはEメールアドレスを交換して別れた。

◆赤十字博物館◆
WHOを出るとバスでふた駅くらいの所に国際赤十字の本部があり、そのとなりに赤十字博物館がある。私は少し歩いてそこまで行った。
赤十字の歴史を順をおって展示してあるのだが、私は見ながら胸に迫るものがあった。国際赤十字の歴史は人道主義の歴史と思われるであろう。しかしそれは一方で人間の戦争の歴史、悲惨の歴史と言ってもいいものだった。
アンリ・デュナンは1859年、北イタリアを通っていた時にソルフェリーノの戦いの悲惨な現状に会う。デュナンは住民を組織して敵味方の区別なく看護し た。彼のこの時の活動は、その5年ほど前の、1854年のナイチンゲールのクリミヤ戦争での働きの噂をデュナンが聞いていたからでもある。彼はその後国際 組織の必要を感じ、「ソルフェリーノの思い出」を表わし、また各国に手紙を書いて、1864年第1次ジュネーブ条約が結ばれた(注1)

〈注釈1)日本ではどうかというと1867年(慶応3年)幕府の使節の 一人として佐野常民(岡村昭彦の曾祖父)がパリの万国博に行った時、アンリ・デュナンの働きを知り、その仕事に感動した。明治10年(1877年)の西南 戦争の時に博愛社を組織して薩軍、官軍の区別なく負傷兵を看病した。その10年後日本赤十字となった。

その後は赤十字の歴史というより戦争の歴史であったと言ってもよかった。たとえばロシア・トルコ戦争、日清戦争、ボーア戦争、米西戦争、メキシコ革命、第 1次世界大戦ロシア革命、エチオピア戦争、チェコの戦争、日中戦争、スペイン内乱、第2次世界大戦、ベトナム戦争、etc. etc. ・・・。
第2次大戦ではホロコーストで6百万とも1千万ともいわれるユダヤ人が殺され(後日私はアムステルダムでアンネ・フランクの家も訪ねることになる)、6千 万もの人がこの戦争のために死んだ。本当に悲惨なものだった。それに比べて人道主義というのはまだあまりに小さいと言わなければならない。
この博物館の入り口にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中にある言葉が壁に大きく記されている。それは「すべての人は、(世界で起こる)すべて のできごと、すべての人に対して責任がある」という言葉である。だれも世界で起こることに無関係ではないという意味である。もしアンリ・デュナンやナイチ ンゲールがソルフェリーノの戦いやクリミヤ戦争の事を「自分の責任」としてこの仕事を為さなかったならば、今、この世界に看護士(注2)という職業も赤十 字も存在していなかっただろう。

〈注釈2)日本ではどうかというと1867年(慶応3年)幕府の看護 (婦)という言葉は一つの職業を表す言葉としてふさわしく思うのでこの言葉を使っている看護(婦)は女性が多いからという意見もあるだろうが、美容師は女 性が多いけれども美容婦とは言わないし、栄養士も理学療法士も栄養婦とか理学療法婦とは言わない。もしそういう呼び方をすれば、とても異様に聞こえるだろ うと思う。岡村も「古い男と女の関係のまま固定してしまった看護婦の原型・・・」という言葉を使っている。このことについてはまた後でゆっくり触れたい。

ドストエフスキーの言葉にもう一つ思い浮かぶ言葉がある。やはり「カラマーゾフの兄弟」の中の言葉だが、それは「すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、必ず世界の他の端にまで響くからである」
シアトルにいた頃、ボランティア・コーディネーターのパデイが「大海の中に右を投げるとその波紋は世界中に広がっていくものですよね」と言っていたが、私もその時彼女に同調し意気投合したことがあったが、2つの言葉は通じ合っていると思う。
世界は広いように見えるが、それよりも広大な宇宙から見れば、この地球は一つの水のかたまりのようであると思うからである。

5日間ジュネーブに滞在した後、友人たちに別れを告げ、コルナヴァン駅からTGV〈テー・ジェー・ベー)(フランスの新幹線)に乗ってフランスのリヨンに向かった。

つづく