そして、人がいた


 

 


 

 

第一回

 「そして、人がいた」 

 昨年末、福田孝一と二人だけの忘年会をした。彼の部屋でシャブシャブ鍋を囲んだ。  煮立ったお湯に肉をさっと通し、ポン酢につけ、彼の前に置く。
「うまい。もっと肉を食べさせてくれ」。しばらくすると「肉は飽きた。今度はシメジにしよう」。「煮えてなくても知らんぞ」と言いながら、かばっとシメジ をつかんで皿の中へ。 今度は「ビールはもういい。ウイスキーにしよう。お湯割りね」。「はい、はい」と私は台所へ行き用意して、彼の膝の上のテーブルにお湯割りウイスキーの 入ったコップを置く。ただ置くだけではない。「もう少し右。ちょっと行き過ぎた。少し左。そうそう」と彼が指し示す場所に置かなくてはならない。それを彼 はストローでうまそうに飲む。  彼は座りっぱなし、私は立ちっぱなし。こんなに疲れる忘年会は初めてだったが、夜遅くまで盛り上がった。
  福田孝一、延岡市在住、四十二歳、在宅の重度障害者。チェルノブイリ原発事故が起きた一九八六年四月二十六日、大分県と宮崎県の県境付近をバイクで走って いて転倒。首の骨を折って頚椎(けいつい)損傷、首から下が麻痺。介助者なしでは生きていけない体になった。リハビリのお陰で右手はわずかに動く。フォー クやスプーンを使えば食べ物を口まで運ぶことができる。パソコンのキーボードは、手に合わせて作った補助具の先で叩ける。常時、車いすの横にぶら下げてい る採尿パックの中に“小”を、“大”は看護婦さんに出してもらう。移動は電動車いす。寝る時や起きる時、風呂に入る時は、チェーンで体を吊り上げ、部屋の 天井に取り付けたレールでベッド、車いす、風呂の間を空間移動する。そんな彼と昨年はよく出歩いた。リフト付きオンボロ車を私が運転してコンサートに行っ たり、彼が突然通 い始めた簿記講座に毎週連れて行ったり…。飲みに行った時は、友人たちと二階の店まで車いすごと抱え上げ、途中で落としそうになったこともある。  ボランティアというつもりは私にはない。彼のできないことをできる範囲で手助けして、気の合う仲間同士、その時を楽しめればそれでいいのである。
ただ、彼の不器用さにはハラハラすることが多い。
十年前、彼はいつも怒っていた。道の段差や傾きに怒り、歩道に乗り上げて駐車しているトラックに怒る。市役所や病院の対応の悪さに怒って新聞に投書したこともある。

「とにかく事故によって、あらゆる状況がガラリと変わってしまったからね。道は車いすで走りにくいし、店にも自由に入れない。今まで車いすで生活してきた人たちは、ずっとこんな苦労をしていたのか、と思うと腹が立ってきて…」
  その気持ちは分からなくはないのだが、あまりにも行動がストレート過ぎる。思いついたらすぐに動く。彼を懸命に支えようとしていた人も、あとさきを考えない彼に嫌気がさし、離れていった。
こんなことがあった。彼から電話があり、あっけらかんとした口調で「ヘルパーさんを全部断った。しばらく一人でやってみるわ」と言うではないか。自立した い、という彼の思いが日増しに強くなっているのは感じていたが、毎日介助してもらっているホームヘルパーを自分から切るなんて、あまりにも短絡的でバカげ ている。私は怒鳴りまくった。「一人で生きていけるわけないじゃないか。親に負担がかかるだけだ。断られたヘルパーさんの気持ちにもなってみろ。そんなヤ ツとは付き合わん」と言って電話を叩き切った。  その数時間後、再び電話がかかった。「今、謝りに行ってきた。ヘルパーさんには今まで通 り来てもらうことにしたよ」。 そんな人間ではある。
 しかし、よく考えて見ると、彼の周りには生活を介助する人はいるが、無駄 話をしたり、議論をしたり、グチを言い合ったり、時には喧嘩するような人がいない。人との接し方を学ぶ機会が、あまりにも少ないという状況が背景にあるの は確かだ。そんな彼が変化を見せ始めたのは二年ほど前。もうすぐ四十歳を迎えようとしていた。「出発」というタイトルの文章を書いた。九州電力が募集して いたエッセイコンクールに応募しようとしていたのだが、書きながら思ったという。「障害があっても一人の人間。別 に悲観する必要はないということに気づいた。それまでは、僕たちのような重度の障害者に好きな人ができてもプロポーズなんかできるわけない、と思ってい た。手は取るし、その人の人生まで奪うような気がしてね。でも、障害があっても普通 に暮らしていたり、結婚する人もいる。僕自身が『障害者』と『健常者』って分けて考えてしまっていただけで、本当は分ける必要はない、自分が思った通 りにすればいい、と考えるようになった。それから僕は変わった」それまで自分の生き方を「計画も練らずに、行き当たりばったり。これからも惰性でいい、と 思っていた」と言う。百八十度変わった。俄然やる気が出てきた。  彼が変化しつつあったちょうどその時、私たちの関係も変化してきた。
一九九八年の年明け、私はテープレコーダーを抱えて福田家を訪ねた。外回りの記者から内勤記者、いわゆるデスクになって一年目。私はエネルギーを持て余し 気味だった。そこで思いついたのが福田孝一。きっちりと見つめ、書かせてもらうことで、記者であることの自覚と誇りを自分に取り戻せるのではないかと考え た。春先までインタビューを繰り返した。ある日、彼がぽつりと言った。「オレ、会報を出そうと思う。名前は『花さか回覧板』」。その時から彼は執筆者兼発 行人、私はアドバイザー兼編集者になった。一昨年の五月、A4版二枚綴りの“回覧板”がスタート。二人で話し合って決めたテーマを彼が取材して書き、私が 手を入れる。これまで十六号を出した。東京の友人宅訪問の道中記、新しくなった延岡市立図書館が障害者にどう配慮されているか、宮崎市で走り始めたノンス テップバスの乗り具合は、彼の母校である延岡工業高校での講演録、入院日記…。したたかに、しぶとく、それでいてユーモラスに明るく、というのが編集方針 である。  現在、彼の友人、知人、福祉関係者など約百人に郵送している。紙代、インク代、郵送料すべて自費。いつかは売れる情報紙にしよう、と密かに思いつつ、ネ タ探しに頭をひねり、原稿の出来具合に悩む日々だ。  彼は昨年、不登校や退学になった高校生たちが再入学した学校で自分を語った。茶髪やピアスをした生徒たちを前に、暴走族まがいのことを繰り返していた頃 の話、重い障害を持って荒れた時期に自殺しようとしたが思いとどまった話、そして今の自分の体の状態などをストレートに話した。  その場の空気感を私は忘れることができない。彼のむき出しの生命力に対する生徒たちの共感であり、ゴツゴツした手触りのある実感を彼の無骨な語りが呼び 覚ましたのかもしれない。それにしても、どうして私は福田孝一と「花さか回覧板」に、はまってしまったのだろう。不器用な人間が不器用なりに、懸命に何か を探し出そうとしている彼の姿に、私は自分自身を見ているのだろうか。