第十二回



 

半世紀を越えて
   ―「月光」の旅 ⑥

終戦から六年後の宮崎県都城駅。おかっぱ頭の小さな女性が、大きなアメリカ製ボストンバッグを大事そうに抱えて汽車から降りてきた。重くて肩が抜けそうだが、手から離すわけにはいかなかった。中に大切な届けものが入っている。
 船に乗る時と降りる時の手荷物検査で見つかりはしないかと不安で胸が張り裂けそうだった。持ち出してはいけないものを持ち出そうとしている。もし没収でもされたら…自分を信じて預けた人、自分を待っている人の落胆が浮かんだ。
 しかし、検査は無事くぐり抜けた。大事なものを入れたその箱を風呂敷に包みバッグの一番底に置いて、その上に聖書をのせていたのがよかったのだろう。バッグは開けられたが、下までは調べられなかった。
 ほっとしながら汽車に乗り、待ち合わせの駅で降りた。一組の男女が彼女を待っていた。バッグの中から大きな箱を取り出して二人に手渡した。その中には、男の弟であり女の夫である遺骨が入っていた。 ----。

 沖縄戦で戦死した山倉兼蔵さんの遺骨は1951年(昭和二十六年)、一人の女性の手で運ばれ、家族の元に帰ることができた。
 その女性が鹿児島県鹿屋市に住んでいる井藤道子という人だということを私が知ったのは、沖縄で出合った半世紀前の日記のお陰だった。
「井藤姉に山倉氏の骨を託す。つつがなく山倉氏よ、宮崎のなつかしきわが家へかえり給へ。重荷が下りた」
「山倉兵長の遺骨は九月二十七日、家族の元にわたったとのこと井藤姉より通知あり。ほんとうによかった。神の大いなる恵みに只感謝あるのみ」

仲嶺盛文氏(故人)の1951年9月12日の日記。「井藤姉に山倉氏の骨を託す」とある。


 日記を書いた仲嶺盛文さん(故人)は沖縄の恩納村小学校の校長をしていた。戦時中に地域の人たちが埋葬した日本兵の遺骨を家族の元に帰そうとしている時に、同じクリスチャンの井藤さんが本土に里帰りすると聞き、遺骨を託したのである。
 勝手に沖縄から遺骨を持ち出すことは禁じられている時代だったが彼女は、法を犯してでもすべきことだと思い引き受けた。義父の墓参りで愛媛県に帰郷する際に都城駅で手渡したのだという。
 「大変でしたからね、覚えていますよ。持ち出せないものを持ち出しているから緊張しました」
 ひとしきり話を聞いた時、ふと思った。彼女は終戦直後の米軍占領地の沖縄に、なぜいたのだろう。
 私の疑問に答えようと井藤さんは説明を始めたのだが…急に沖縄に行くことになり、着の身着のまま船に乗って、着いたらそのまま働くことになり、結局そこで六年間過した…その話はあまりにも突拍子もない話のように思え、最初のうち私には理解できなかった。
 それから何度か聞き直し、彼女が書いた自叙伝を読んで次第にわかってきたのは、敬虔なクリスチャンである井藤道子という女性は、そのときどきに与えられ た使命に素直に従い、ハンセン病患者に寄り添うように歩いてきた。その道の途中にあったのが沖縄だったということである。 戦争末期から終戦直後の「道子 の道」をたどってみようと思う。戦争の悲惨さもハンセン病患者が虐げられた歴史も知らない私が何を学ばなくてはならないのか、そこから少しはわかるのでは ないか、そんな気がした。

 井藤道子は一九四一年(昭和十六年)五月、二十四歳の時に鹿児島県鹿屋市のハンセン病療養所・星塚敬愛園の看護婦になった。その年の十二月、太平洋戦争が始まる。
 警察がハンセン病患者を連行し、収容所に強制隔離する時代が続いていたが、開戦ととも「祖国浄化」が強調され、患者の隔離収容は強化された。入園者は激増し、食糧も医療材料も乏しい中、死んでいく者が続出した。
 「強制収容で無理遣りに連れて来られた人が、残してきた妻や子供たちを案じ、わが家を恋い慕いながら、貧しいベッドの上で死期を思いつつ心の底の悲痛を 訴え、収容への恨みを洩らす時、胸が詰まって慰めの言葉が出ず、ただ手を握ってうなづき涙を流すのみでした」(星塚敬愛園入園者自治会機関誌「姶良野」一 九九六新年号)

 次第に戦火は激しくなる。沖縄は本土の防波堤となり、ついに陸上戦が始まった。
 道子が働く星塚敬愛園には、数多くの沖縄出身者が収容されていた。その中の一人の少女が涙を流しながら道子にこう訴えてきた。
 「一度でいいから沖縄へ帰りたい。井藤さんのオーバーの中か、大きなトランクの中に私を隠して沖縄へ連れて行ってよ!」
 道子は親しい医師に怒りをぶつけた。
 「日本の軍国主義者たちが強い者勝ちの国づくりをし、戦争などするから弱い者がこんなに苦しい、悲しい境遇になるのと違いますか。らいの予防よりも戦争を止めさせる戦争予防が、らい予防の先決問題なのではないでしょうか?」
 戦争は道子にとって、自分が愛する患者や子供たちを苦しめるだけのものだった。

 道子が祈りを重ね、待ちに待っていた終戦を迎えた。混乱の中、食糧確保に走り回りながら、少しずつ平和に向かって歩み始めた。
 しかし、沖縄の惨状が伝わってくると、入園者の多くを占める沖縄や奄美大島などの出身者たちの不安な思いが園全体に漂ってきた。
 このころに道子が詠んだ短歌

我がふるさと最早あらずと泣きじゃくり訴ふる汝よ那覇に生まれし


国籍は天に在りとぞ励ますに頷きてまた泣きじゃくる少年

郷里のたより絶ゆるに今宵はも自殺未遂すらい重き少年

(歌集「野の草)

 敗戦から二年目、道子が「祈りの丘」と呼んでいた星塚敬愛園の小さな丘に、入園者たちが自由に来ることができる「祈りの家」を建てようと計画を進めていた時、思いがけない出来事が起こる。
 それは、神に導かれたとしか言いようのない沖縄行きだった。


沖縄愛楽園で看護婦として働いていたころの井藤道子さん(井藤道子著「星塚敬愛園と私」より)


 一九四七年(昭和二十二年)五月、全国各地のハンセン病療養所に入園していた沖縄などの出身者が、ふるさとにある療養所の沖縄愛楽園への転園帰還願書をマッカーサー司令部に提出し、許可された。

 道子は、沖縄から本土に引き揚げてきた看護婦から、爆撃を受けて全壊した沖縄愛楽園の様子をつぶさに聞いていたため、患者が大挙して沖縄に移ることに反対だった。

 

 沖縄愛楽園は、沖縄本島北部の本部半島の内海に浮かぶ周囲十六キロの小さな島、屋我地 (やがじ)島にある。戦時中、ここを米軍は日本軍の基地だと思い、徹底的に攻撃。爆弾約六百発、ロケット砲弾約四百発、艦砲約百発、機銃弾約十万発を浴 び、治療室、重病舎、礼拝堂、作業所、入園者の病棟は跡形もなく焼け落ちた。

 爆撃での死者は少数だったが、防空壕の建設に駆り出された入園者の多くは傷が悪化したり、栄養失調、マラリアなどにかかり、戦後わずか一年で三百人近くが死んだという。

 そんな状況の中に患者たちを移すのは危険が大きすぎる。しかし、道子の反対は聞き入れられず、各療養所からの希望者二百十八人が病院船に乗り込み、大移動することになった。

 そのほとんどが鹿屋の星塚敬愛園の入園者たちである。戦争が始まった時と同じように道子は自分の無力さを嘆き、ひたすらに祈った。

 「そして、私は主のみ声を聞いたのでした。『戦争の犠牲となった沖縄愛楽園へ行き、看護婦の仕事をするように!』と」(「祈りの丘」)

 

 すぐ医務課長のところへ行き、愛楽園での看護婦勤務を願い出た。しかし返事は「厚生省でも外務省でも手の届かぬ米軍占領地への転出は、現在の日本では不可能」というものだった。

 「私は、看護の道、赤十字の道は、敵味方も国境もないはずだし、個人的には神の召命と思っていましたから、不服に思いつつも『主のみ声ではなかったのだ』と思い諦めていたのでした」(「祈りの丘」)

 

 患者たちが沖縄に向けて出発する日の朝、道子は見送りのつもりで星塚敬愛園に出勤した。ところが出発間際、どうしても付添看護婦が足りないということがわかり、道子は患者護送責任者から「佐世保まで同行してほしい」と言われる。

 突然のことで驚いたが、とにかく行くことにした。着替えを取りに行く間もないまま、渡された昼食用の弁当と更衣室に置いていた洗面道具、そして着ていたワンピースを小さなバッグに押し込み、白衣に着替えてトラックに乗り込んだ。

 トラックの屋根には白布で包んだ行李がロープで縛り付けてあった。中には、戦争中に栄養失調で死亡した人、道子が愛した少年や少女、幼い子供の遺骨が納められていた。涙ながらに行李をなで「佐世保までお見送りするからね」と語りかけて出発した。

 佐世保に着いてみると、沖縄へ帰るハンセン病患者の子供たち十六人の世話を病院船の看護婦たちが拒否。結局、道子が保母として沖縄まで行くことになってしまう。

 

 星塚敬愛園を出発して六日目、沖縄の屋我地島に着いた帰還者たちが見たのは、防空壕生活をようやく終えたばかりの沖縄愛楽園の入園者たちが、かやぶき小屋で暮らしている姿だった。

 帰郷を望んだ人たちは落胆した。爆撃で全壊した施設はアメリカによって再建されているのでは、という望みを抱いての帰郷だったが、その夢は打ち砕かれたのである。

 その夜から、カマボコ型の兵舎用建物の土間にカッパを敷き、雑魚寝をする毎日が始まった。

 道子は現地米軍の特別許可で滞在が許され、セルの長袖ワンピースという朝の勤務姿のまま、なりふり構わず子供たちの世話に明け暮れた。

 一カ月後には、急増した患者の対応に困っている医局に移った。

 それからの六年間、沖縄でハンセン病患者のために働くことになった。

 当時を振り返り、道子は自叙伝にこう書いている。

 

 「神様は、その時と場所を選び、いろいろな人を選んで、それぞれにふさわしい役をお与えになられて、歴史というものをお進めになられるのだなあ と、思わされております」

(つづく)


鹿児島県鹿屋市の国立療養所・星塚敬愛園で筆者と(今年1月14日撮影)



 参考資料

井藤道子著「祈りの丘」「星塚敬愛園と私」、歌集「野の草」/星塚敬愛園入園者自治会機関誌「姶良野」一九九六新年号