ホスピス旅日記’97 ⑪

◆パリの街◆
パリの街について説明しておこう。パリの真ん中を、東から西へセーヌ川が横切っている。そのセーヌ川の真ん中にちょうど福岡の中洲よりも少し大きなくらい の場所がある。それがシテ島であり、パリの発祥の地である。ここからかたつむり状にパリ20区が外側に向けて広がっていく。パリの北側、山手の方にはモン マルトルの丘があり、ここにサクレ・クール寺院がある。「赤い風車」のムーラン・ルージュのある繁華街もこの丘のふもとである。この北部地域は今ではアラ ブやアフリカからの移民の人たちが多く、物価も安い代わりに治安もあまり良くない。
中心のシテ島にはノートルダム寺院や裁判所、そしてオテル・デュー病院がある。セーヌを渡ってすぐ北側にはルーブル美術館やパリ市庁舎、チュイルリー宮が ある。そのチュイルリー宮から一直線に西に向かうとシャンゼリゼ大通りと凱旋門が見渡せるように造られている。それと反対に東へ向かうとフランス革命の発 祥の地バスチーユ広場がある。
シテ島から南へ下ると、カルチェラタンやサン・ジェルマン・デ・プレがあって、このあたりのカフェでサルトルとかボードワールなどの文人がたむろしたところとして有名だ。
さて、そこからもう少し南に下ったところにモンパルナス大通りが東西に抜けているが、その通りに面したところに私は宿を取った。私は昔この辺りに住んでいたことがある。そういうこともあって、この辺に宿を取った。
この辺りにはサルトルの時代からさらに2,30年さかのぼった昔、シモーヌ・ベイユやロマン・ロランなどが住んでいた。ビクトル・ユゴーのレミゼラブルに出てくるリュクサンブール公園もこの近くにある。




◆ロマン・ロランのこと◆
昔はこの辺りをよく歩き周った。リュクサンブール公園のあたりから、モンパルナス大通り、サン・ミッシェルのあたりまで。
私は若い頃ロマン・口ランが好きだった
ので、 (それでこの辺りに住んだ訳ではなくて、それはまったく偶然だが )彼の書い
た「ジャン・クリストフ」という書物では〝貴重な読書体験〟というものをしたことがある。余談だが昔、日本の若い芸術家たちが数人で「ロマン・ロラン友の 会」というものをつくっていたそうだ。詩人の高村光太郎、彫刻家の高田博厚、片山敏彦などである。しかし、そのひとりに坂村真民さんもいた。真民さんは現 在 90才近くのご高齢でご存命だが、このオアシスの表紙の題字を書いてくださった方である。
いったい私は何が言いたいかというと、そのロマン・ロランはこのモンパルナス大
通り164番地の質素なアパートの一室で10年間に渡って「ジャン・クリストフ」
を書き続けた。そのアパートの表通りにはパリの喧騒があったが、裏側の窓は数百年
の歴史を湛えた静かな修道院の庭に面しており、それが執筆中で生活も不如意な彼をなぐさめたということをロラン自身が書いている。
この修道院とはサン・ヴァンサン・ド・ポール修道院なのである。サン・ヴァンサン・ド・ポールとは英語風に読むとセント・ビンセント・オブ・ポールとなるが、ホスピスの源流のひとつを創った人である。

◆サン・ヴァンサン・ド・ポール◆
ここでやっとホスピスの話しとつながる訳だが、昔、私がこの辺りを歩いていた頃は、その修道院がヴァンサン・ド・ポールという名前だとは知らなかった。また今回行った時にも私は彼についての知識をあまり持っていなかった。ただ岡村昭彦の「遠い道」の中で知るくらいだった。

ヴァンサン・ド・ポールという人物は 1581年にフランスの農村に生まれた。その頃、フランス国内はカソリックとプロテスタント (ユグノー) の悲惨な宗教戦争のさなかで、残酷な殺し合いを続けていた。1598年の「ナントの勅令」によって一応の終息をみるが、宗教界、そして社会は荒廃してい た。ヴァンサン・ド・ポールはそれを建て直した人とも言える。Sister of charity( 日本ではカソリックの人たちは、愛徳姉妹会と訳している )という婦人の組織をつくって、貧しい人、ホームレスの人、死にそうな人を街に出ていってケアをした。これらの彼の運動が、後のアイルランドやイギリスの ホスピス運動につながっていく。修道院の隣にはヴァンサン・ド・ポール病院もある。私は彼のことをもっと知りたくて、何か資料が欲しかった。修道院に入っ ていこうかどうしようか少し迷ったが、結局、勇気を出して修道院の大きなドアを押して中に入っていった。レセプションの部屋には80才くらいのシスターが いた。そのシスターに尋ねると、ここには何もないので、サン・ジェルマン・デ・プレに近いところにある「不思議のメダイ教会」というところに行けと教えて くれた。教えられた通りに系統バスに乗り、バス停で降りてから道を尋ねながらその教会まで行った。
確かにそこに行くとヴァンサン・ド・ポールの本もたくさん置いてあった。そこはカソリックの聖地になっているらしい。フランス各地から来たらしい巡礼者が たくさんいた。また、そこから1ブロックくらい歩くと、ヴァンサン・ド・ポール教会という小さくて古い教会もあった。ここが彼が亡くなったところだったら しい。

◆パリのホテル◆
私が泊まっていたモンパルナス大通りに面したホテルはパリでは下の上くらいのところだろうか。しかし、リヨンと違ってこんな大都会であるだけに部屋は狭く息苦しい。
近くの通りでは毎朝、市(いち)が立つ。そこで私はくだものとか飲み物とかを買ってきて、部屋のシンクに水を溜めて冷やしておく。そして夕方帰ってきて本 でも見ながら食べるのだった。「遠い道」を読むと岡村もよくそんなことをしていたらしい。私は経済状態が図らずもそんなことをしていると、同じようにして いた岡村昭彦のふところ具合まで見えてくるような気がした。余分な金は少しも持たなかったのだろう。しかし彼は、ゼミの生徒のために多量のポスターを買う ことはできたのだった。当時の岡村にとって、ゼミの仕事が最も大切なことであったことがわかるような気がする。

◆病院博物館とパリ・オテル・デュー◆
ご存じの方も多いかも知れないが、シテ島にはあの巨大なノートルダム寺院がある。中世の頃に数世紀をかけて石を積み上げて造ったゴチックの代表的な寺院で ある。この様式は遠くドイツやアイルランドにも広がって行き、今でもヨーロッパ各地にこの様式の寺院を見ることができる。カソリックであるアイルランドで も私はたくさんそんな教会を見た。
このノートルダムの右隣にパリのオテル・デューがある。


          オテル・デューの構想模型

リヨンのそれよりは百年くらい後に7C.に造られたものだ。もちろんその後、何度も火災などにあって、建て替えられている。その度にいろんな建築家によっ て理想的な病院が構築されたが、前頁の写真は19C.に造られたもっとも有名なモデルである。私はこれからナイチンゲールの「看護覚え書」の病院管理のこ とを連想した。
さて、シテ島から南にセーヌ川に架かる橋を渡って、5分ほど行くと病院博物館 (Musée des Hopltaux) がある。


しかし、ここは一ヶ月間、夏のバカンスで休館になっていたので、2回目に訪ねてようやく見ることが出来たのだが、ここでも興味深い病院の歴史を見ることが 出来た。アンシャン・レジウム(旧体制)の頃の絵や写真だとか、フィリップ・ピネル(医師)が最初に精神病者たちの鎖をはずしたというビセートル病院のこ ととか、また世界で最初の心電図というものもあった。


◆ダイアナ妃の交通事故◆
私がパりに着いた次の日だったか、街を歩いていてキオスクの近くを通り過ぎると、イギリスのダイアナ妃の写真が新聞などの表紙に、たくさん出ているのが見 えた。ああ、またゴシップ記事でも載せて、追っかけているのだろう。かわいそうにそんなこと止めればいいのにと思いながら、私は博物館だのオテル・デュー だのに向かっていた。彼女がその時、パリで交通事故で死んだことをしばらくの間知らなかった。たしかにリッツホテルの近くを歩いた時には、警官が2,3人 立っていた。パリの街はいつもと変わりなかった。
しかし、私はそれから1週間後、ロンドンで、数百万人の人たちが集まって来たダイアナ妃の葬儀にちょうど出くわしてしまうことになる。


◆アムステルダムヘ向かう◆
なつかしいという気持ちもあって、私は観光的な場所にもできるだけたくさんいった。ルーブル美術館、ロダン美術館、サクレ・クール寺院そしてエッフェル塔 にも行った。そのような場所にもひとつひとつについて書くこともあるが、それはいつかの機会に回すことにして、少し旅をいそぎたい。パリ北駅から特急列車 に乗ってオランダのアムステルダムに向かった。
ベルギーを抜け、ロッテルダムを通ると列車は約5時間でアムステルダムに着いた。

この街にはまだ見ぬ友人がいた。シアトルにいたころヨーロッパに行くのだったら、この人を訪ねてみろよと、彼の古い友人を紹介されていたのだった。その人の名前は
セシリアといった。
私は汽車の駅に着くと、駅から彼女に電話をかけた。シアトルの友人から私の行く
ことは伝えてあった。彼女から道順を教えてもらって、私はバスに乗り、その通り
(straat) のあるところまでどうにか行った。

◆友人宅へ◆
駅に着いてから短い時間だがフランスやアメリカにいた頃に比べると非常に不自由な気がした。自分に入ってくる情報量がアムステルダムに着いてから極端に少 なくなったからである。オランダ語が全然解らない。書いてある文字も読めない。そうするとほんのちょっとしたことをするにもひどく苦労するものである。銀 行とかトイレとか簡単なことでもである。私たちは普段は意識しないが、ただ道を歩いているだけでも自然に情報を取り込んでいるのだなと思った。
セシリアから言われていたとおりのバス停でどうにか降りることができ、人に尋ねながらアパートの前まで着いた。重いスーツケースと一緒の私は汗をかきなが ら、通りに面した1階のドアのベルを鳴らした。すると垂直に建っているアパートの4階の窓から彼女が顔を出し、「ハーイ、上がっておいでよ!」と合図し た。ここはどんなうちなのだろう、彼女はどんな人なのだろうと思いながら、急な狭い階段を上がっていった。
             ―つづく


     1997年当時のTGV(テージェーベー)