第七回



 

半世紀を越えて    ―「月光」の旅 ①  

 夏になるとあの記憶が鮮明によみがえってくる。戦後 生まれの私たちが体験した戦争を巡る旅の記憶。あの時の戸惑いや驚き、喜び、悲しみは、鮮やかな映像を伴って浮かび上がってくる。不思議な縁(えにし)が 導いた私たちの旅の記録を、これから三回にわたって書いてみたい。半世紀前に戦死した一人の男の足取りをたどる途中で、何を聞き、何を見たのか。そして、 出会った人たちは私たちに何を教えようとしてくれたのか…。   

  五年前の夏、私たち三人は不思議な旅に出た。何か大きな力が引き合うように人と人とが結びつき、予想外の出来事が次々と起きる。縁(えにし)が幾重にも積み重なり、半世紀前の戦争へと導かれていく。その先にあったのは沖縄戦であり、特攻隊であった。
私は新聞記者、彼はテレビのディレクター、彼女はピアニスト。奇妙な取り合わせだが、気の合う親友だった。この三人が終戦五十周年の年、何の巡り合わせか「戦争」をたどる旅に出た。
二十代後半から三十代半ばの私たちにとっては、あまりにも重いテーマだったが、目の前に立ちふさがった厚い扉を何とか押し開けようと、体験者から話を聞き、資料をめくり、戦跡に足を運んだ。
その扉を開けてくれたのは不思議な縁だった。
「誰かピアノを弾いてくれる人はいないかな?」 すべては友人のこの一言で始まった。
彼は宮崎県庁職員。終戦五十周年記念事業を担当することになり、終戦間際、特攻隊員が出撃前に弾いたピアノで演奏してくれる人を探しているのだという。曲はベートーベンのピアノソナタ「月光」。
私はすぐにピアニストの松浦真由美に持ち掛けた。松浦が「やってみたい。この曲はいつか演奏したいと思っていた好きな曲」そう返事する横で、彼女の母・弥 生が「じいちゃんも喜ぶと思うよ」とうれしそうに言うのが聞こえた。「えっ」と聞き返すと、弥生は自分の父親・山倉兼蔵(かねぞう)のことを話し始めた。
身重の妻と三人の子供を抱え、ごく普通の生活を送ってきた会社員だが、三十四歳の時に召集され、沖縄で戦死した。戦後、遺骨は帰ってきたが、亡くなった場所や日付はわからない。
「今、この子が弾いているピアノは、じいちゃんの軍人恩給で買ってもらったんですよ」
そう弥生から聞いた時、松浦真由美が終戦五十周年の節目のステージで、戦争にゆかりのあるピアノを弾くのは何か意味があるではないか、と感じた。そして、きっかけをつくった私にも託された何かがあるのではないか・・・。
山倉兼蔵について知る必要があった。手がかりを求め、当時七歳だった長女の弥生と妻アキノに話を聞くことにした。

■松浦弥生 (1995年5月7日のインタビューから)
赤紙が届いたのは昭和十九年の一月か二月の朝でした。まだ暗いうちに目が覚めると、臨月前で膝が隠れるぐらいおなかの突き出していた母が、父にご飯をよそおいながら泣いていた。
それを見て私は「なぜだろう」と思った。父が「戦地に行くからといって死ぬ と決まっているわけじゃない。心配せんでいい」と慰めていたのを覚えています。 母にすれば、戦争末期だから無事に帰って来れないんじゃないかな、と泣いていたのでは。
でも幼い私には、戦争に行くということがどんなに危険なものかはわかりませんでした。 子供が大好きな父で、会社から帰る時には絵本やコンペイトウをお土産に買ってきてくれたり、夜は私が眠るまで昔話をしてくれました。
父を送り出す前の日、親戚の人たちが集まって門入れをしました。お別れ会のようなものですね。
その時、父は「お国のために元気いっぱい戦ってきます」と挨拶したと思います。
そして皆が帰ったあとに、父は子供たち一人ひとりに「お土産は何がいいか」と 聞くので、私は「バナナが欲しい」と言いました。







沖縄の「平和の礎(いしじ)」で松浦真由美の姿を撮影する NHKのクルー。
左がディレクターの皆川信司







当時、バナナは貴重品でめったに食べられませんでしたから、あこがれがあったのかもしれません。父は「よしよし。バナナを買ってくるからね」と言いました。
子供なりに別れの寂しさを感じていたような気がします。 家の周りの人たちが集まって「バンザイ、バンザイ」といって送り出しました。駅では入隊する人たちがずらっと並んで、家族と地域の人たちが日の丸の旗を振っていました。
父が代表して挨拶をしたのを覚えています。
汽車が動き始め、ホームで小旗を振って見送りましたが、出征する人たちはみんな窓から顔を出して手を振っているのに、うちの父だけがいない。そうしたら、 汽車の最後尾のステップのところに軍服を着た父が一人立って手を振っていたのです。列車が遠ざかるまでずっと手を振っていました。
父の戦死の公報が来た時、私は母の姉の所にいました。おじが私を呼んで「父ちゃんが戦死したと連絡が来たから今から一緒に帰るぞ」と言われました。昭和二十一年十月のことです。夜中に目を覚ましたら母が泣いていました。
戦争に行った人はみんな戦死したと思っていました。でも、周りのお父さんたちは復員して帰ってきます。なぜ私の父だけが帰って来ないんだろう、とすごく悲 しい思いをしました。誤報であってほしかった。葬式はしたにもかかわらず母は、もしかしたらどこかで生き延びていて、いつか帰ってくるのでは、という夢を 何年も持っていたと思います。
父の遺骨は、公式な手続きは取らず、民間の人たちの手で引き渡されました。山の上で倒れている兵隊さんがいたので、現地の学生と校長先生とが穴を掘り、目印をして土葬したそうです。所持品から父の山倉兼蔵だとわかったようです。
何年かのちに、沖縄の病院で働いていた看護婦さんが本土に帰る時に父の遺骨を預かり、都城の駅で母たちに届けてくれました。かなり大きな箱で白い布に包んでありました。
小学校の終わりか、中学校のころ、誰もいない時に仏壇から遺骨の入った箱を降ろして開けてみたことがあります。中には赤い骨がいっぱい入っていました。一番上に乗っていた頭蓋骨には穴が開いて割れていました。
埋めてくれた人の手紙によると、頭を撃たれており、ほとんど即死の状態だった、ということです。私には、父の骨ってどんなものなんだろう、どこを撃たれた のだろうか、本当に父なんだろうか、という疑問があったんだろうと思います。怖いという印象は全然ありませんでした。
父が戦死したとはわからない頃、どうしてこんなに悲しい夢を見るんだろうか、と思ったことがあります。目の前の田んぼにポッカリと黒くて大きな穴が開いて、中から炎が上がり始め、その炎の中に父の姿のようなものがボーと上がってくる夢。とても悲しい夢でした。
私たち家族が悲惨な生活を送っている時でした。あれは父が私に見せた夢だったのかな、という気がします。終戦後も父の夢を何度も見ました。
いずれ、父が命を落とした沖縄へ絶対に行く、と心に決めていましたが、経済的なゆとりがなくてなかなか行けませんでした。ようやく行ったのは三十三回忌の 時の昭和五十三年、母と私の子供たちを連れて行きました。飛行機から沖縄が見え始めた時に涙がボロボロと出ました。 父の骨がなぜ赤かったのか、沖縄に行って赤土を見て初めてわかった。あの土に埋められていたからあんなに骨が赤かったんだなあ、と謎が解けたのです。 万座の海を見た時はすごく悲しかった。このきれいな海を見ながら父は残してきた家族のことをいつも思っていたんだろうなという気がして・・・。 沖縄で戦死した山倉兼蔵と戦地に送られた家族の写真 帰る時、「家族で来たよ。一緒に帰ろうね」と心の中で呼び掛けて帰ってきました。不思議なことに父の夢はそれから見なくなりました。

■山倉アキノ (1995年7月13日のインタビューから)
召集されるまでは親子五人で平和に暮らしていました。とにかくやさしい主人で子供好き。怒ったことがなく、私も大事にしていただきました。
出征した時、四番目の子供が私のおなかに入っていました。「子供を大事に産めよ」と言い残して行きました。産まれたのはそれから二十九日目です。戦地にその子の写 真を送ったら、「写真を見ると、もう歩くような姿をしている」という葉書が来ました。それが最後でした。
役場から戦死公報が来たのは昭和二十年の十月の中ごろ、晩ご飯を食べてくつろいでいる時でした。公報を受け取った途端、全身がぶるぶる震えました。涙は一 滴もこぼれず、ただ震えているだけ。自分でも恐ろしいぐらい震えがきて…どうすることもできません。隣の家に駆け込んだら、おじさんが寝ていたので事情を 話して、「震えが止まらんとです。布団の脇に入れてください」と頼んで、じっとしていたらやっと止まりました。お礼を言って帰ったのを覚えています。 人間は悲しみの絶頂に達した時には涙がこぼれない、という話は聞いていましたが、その通 りで、不思議なほど涙は一滴も出ませんでした。でも日がたつにつれて涙が溢れ出して…。それから苦労が始まりました。
終戦後、沖縄から届いた手紙には「激戦があり、朝方行ったら小高い丘の上にご主人が倒れていました。あとは仲嶺さんにすべてを依頼しておきました」と書か れていました。 その仲嶺さんから「愛媛県から看護婦さんとしてこちらに来ている方が、鹿児島に公用で行かれるので、その人にご主人のお骨を頼みますから都城まで受け取り に来てください」という手紙が来ました。主人の兄さんと二人で行き、お骨を受け取りました。ずしっと重かった。骨が全部入っていたか らです。 沖縄からの手紙には「カライモを四キロほど背負っていました」とありました。私は主人に「戦地に行ったら飲まず食わずの時もあるだろうから、食べ物は自分 で確保しなさいよ」と言いました。私の言ったことを思い浮かべていたのかな、と思いました。
頭を撃たれてあっという間もなかったと思います。家庭のことや子供のことなどを考える間もなく即死だったのでしょう。苦しみもなくて、その場でぱっと命を断たれて…。 私の年代では未亡人になって苦労した人がたくさんいます。だから私一人でない、と自分を慰めることができました。皆、戦地に夫を取られて一様に苦労していました。  若い人たちは戦争の話を聞いても実感がわかないでしょうね。私たちの年代で、戦争を通 り越してきた人だけにしか本当の気持ちはわからないと思います。話を聞いて「戦争ほど悲惨なものはない」とは思うでしょうが・・・。 尋ねられたら話しますが、つらいことまでは話したくありません。悲しみを思い出して涙が出るから。 平和の礎で祖父・山倉兼蔵の名前を見つけた。会えた喜びを指で確か める松浦真由美。(沖縄県糸満市摩文仁の丘で)四人の子供が素直に育ってくれたことを主人に報告した時の喜びは最高でした。

平和の礎で祖父・山倉兼蔵の名前を見つけた。会えた喜びを指で確かめる松浦真由美
               (沖縄県糸満市摩文仁の丘で)



 

弥生とアキノに話を聞いた数日後、松浦真由美が「こんなものが出てきた」と一通 の手紙を見せてくれた。

「(前略)御主人の御骨送りの事につきまして、沖縄政 府の担当の人々とも話しあっていますが、御骨の一部なら送る事が出来るが、全部は今のところむづかしいというのです。私としましては御送りするなら全部を まとめて送ってあげたいと思いまして今迄のびのびになっています。もし政府の方で御骨発送の事がうまく行かねば、来年になりますと私も日本の教育視察にゆ く事が出来ると思いますので、その時に私が持参してゆこうかとも思っています。御主人の御骨の方は私が責任を持って御あづかりしていますから御安心下さ い。(中略)女の身、御一人で多くの御子様の養育は大きな仕事ですが、常に御主人の御霊は御子様方を見まもって居られますから力をおとされずに希望を御持 ちになって御働き下さい。 一九五〇年十一月三十日 仲嶺盛文 山倉あきの様」

住所は書かれていない。「仲嶺盛文」について沖縄県庁に問い合わせてみると、沖縄本島中部にある恩納小学校の校長をしていた人だとわかった。十二年前に他界していたが、奥さんが健在だという。すぐに電話した。
仲嶺ツルの返事はこうだった。

「終戦当時、確かに恩納小学校の校長でした。でも主人から山倉さんのことは聞いてません。文章を書くことが好きな人でしたから日記には何か書かれているかもしれません」

それまで手がかりのなかった私とNHKディレクター皆川信司との共同取材は、一通 の手紙をきっかけに大きく展開していくことになる。

 あの夏の沖縄は暑かった。照りつける太陽の下、松浦真由美は沖縄で戦死した祖父を追って歩き回った。
沖縄戦の犠牲者の名前を刻んだ平和の礎(いしじ)。
しゃがみ込んで壁面を指でたどる。「あった」。声を上げ、御影石に刻まれた「山倉兼蔵」の文字を、いとおしそうになぞる。
「じいちゃんはいないのよ。オキナワであたまにバクダンがおちてセンシしたから」。幼い頃からそう聞かされてきた。意味もわからず、悲しいと思ったこともなかった。その祖父とようやく会えた。
「触ったことも、声を聞いたこともないじいちゃんがそこにいるような気がする。うれしい」。笑顔を見せる松浦真由美の姿を、私はカメラを構え、皆川信司は取材チームを率いて、じっと見つめていた。
これが私たちの沖縄を巡る旅の出発点だった。縁が複雑に重なり、予想もしなかった出会いに導かれていく。戦争は遠い日の出来事ではない、ということを気づかせてくれる旅だった。

(つづく)