へんろ一人旅②

4月24日 

最近だったと思うが、なにかの本で、見たの か忘れたが、ある時、ある人が四国の近くを海を船で渡っていた。九州を 抜け、中国地方の横を通り渡り、四国の山々が近くに迫って来た時、四国の山々は輝いて見えた。

 

それほど、四国の山々は住んでいる人々の人情があふれ、信仰心にあふれている、と。私は本当に九州や中国地方に比べ、やはり四国の人情が溢れ、信仰があついと思う。

 

もちろんお大師さんの信仰も長い伝統をつくってきたに違いない。さて、今日から四国の第2弾だ。フェリーで松山の駅に来た。

 

4月25日

JR松山の町から列車に乗って4、5時間揺られ徳島の町の立江で降りた。こ こは19番の立江寺の時に3日間、お世話になった民宿の人たちがいるところだ。福岡に5、6日ばかり帰って来たから、少し歩き方が遅くなって来た(スピード)ので、列車の駅を降りて、民宿までの約1kmくらいの距離を、少し歩いて見た。

 

しかし、ちょっとばかり疲れてしまった。前に泊まった民宿に帰って、おやじ さんや民宿で手伝う女の子が、驚き顔で、私のことを迎えてくれ、そして自分のことのように、喜んでくれだ。 「え~、13km歩いたの。すごいじゃないの」と喜んだ。嬉しいかった。おやじさんは「やっぱり、へんろは前へ、前へ、進むべきだな。全部周ったら、も う一度来ればいいよ」と、言ってくれた。

 

4月26日

さっそく、第1弾のところまで阿波、福井(ここも、むじんえき)までJRで行 き、さあ、ここからと歩き始めた。ちょっと5、6日間、福岡に帰ってたので、なかなか調子がでない。それでも10kmは歩いた

阿南、美波を南の方へ 下っていく。ここは徳島でも南の方に当たる。あのこわい室戸へ行く雰囲気が出てくる頃だ。あそこは、長い間に渡って人とあまり出合わない。そんな時、どうしょう・・・。

 

        海も空も真っ青
        海も空も真っ青

4月27日

へんろを続けている。ふうふう言って歩いているところへ、一休みをしょうと石を探し、その上に腰を下ろした。そしたら、お母さんが(ちょうどそんな感じ)家から飛びだして来て、私の目の前の ある店に入ろうとして、そこに座っている私が目に入り、「どうしたの?」から始まって、話しははじまった。

 

お母さんの話はこうだった。「自分の子どもは今31才、それが22才の時に脳梗塞を起こし、たいへんだった。最初は自宅だったが、今は施設に入っている。

 

現在は、俳句や染物をやって、生きている。俳句は得意なので、県のなんかで賞をとったりする。子どもが言うのには、何か《使命感》を持って生きているそう だ。やさしい子なんだよ」そんな話をしてくれた。彼女が言うには、「太陽に手をかざしてごらん。元気がでるよ」と言って、自分で作った仏の絵が入った石をくれた。

 

2時ころ、善根宿の宿というのがあり、そこに泊まろうと今のうちに電話を取った。そして電話をしてから、山道の下りの坂道があり、それが長い道のりがあったため、おかげで随分手間取った。道路は岸壁のように、上にあがったり、下にさがったり、海岸線が続いてる。

 

まだ3kmある。ここの村にはキャンプ場があり、寝ることができる。ここで野宿しようか。宿にお断りの電話をした。「障害が少しあるので、そんなに3kmもは、日 が暮れてしまうので」そしたら、善根宿の人は「そこに居なさい。迎えに行ってあげるから」数分後、車は来た。しばらく走って、バスを改造した宿泊所が見えた。本業の食堂から、夕飯を運んでくる。宿泊費がゼロだった。お接待がありがたかった。

 

4月28日

徳島、最後の薬王寺、23番の納め札は、あとは室戸へ、長い道が続いてる。列車に乗って、2(ふた)駅先で降りた。そこは、無人駅(四国にはこういう無人駅が多い)だった。車掌が私の方へ、走って来て、「こんなとこへ降りて大丈夫ですか?ここは山の中で、町まで何時間もかかりますよ。それでもいいんですか」そうやって、走って来て2回も下りて聞いて来た。

そしてあきらめ、 ベル鳴らし、列車は走り去った。そして山の中を5時間歩いたのちに、5時ころ町についた。

 

宿のおじさんは(82才で、なかなか元気)いろいろな話を私を相手にして地図も出したり、案内したり、宗教の話をしみりしてくれた。話の中に、「信じるものに、恐れなし」という話が出てきた。信じるものがあれば、恐れることはないということ。うーん、そうだろうな。

 

    空海が修行した御蔵洞(みくろど)
    空海が修行した御蔵洞(みくろど)

4月29日

朝のうちに、鯖大師の近くを通った。ここの鯖大師の住職は、福岡の友人から少し知ってるからと泊めてもらったら、勧められていたが、しかし、鯖大師の横を通ったのは朝の9時くらいだし、お参りだけして行こう、 と思って、そうした。

 

昼すぎ、歩いている時、これは夕方宿に間に合いそうにないな、と思った、すると車が止まった。「車の、お接待をしましょう か?この車は、なんなんの方まで行くよ」(どうしよう?)と、しばらく、迷った末、いいや、乗せて貰おうと考え、「いいよ、乗せてもらうよ」そして、民宿のところまで乗せてもらった。しかし、そうしてから後悔が、ちくちくしだした。やっぱり、歩くのが良かったんじゃないかなあ。行って見ると、ま だ、留守だった。ちょうど、よかった。時間まで、ひとまわり歩いてこよう。歩かないとだめだな。そうやって歩きまわった。

 

そしてちょっど時間ごろ、民宿の 前に着くと、若い人が、その時、私の身体の不自由に、はじめて気がついて、 「なんと言って、いいか、わからない。病気のことを・・」そして、妻の病気 のことを話し、「脳のところの手術を受けたんだが、でも彼女は、好きに動くことさえできるし、働らきもする、あなたよりはもっと自由だし、・・・」考える ことがあったみたい。

 

4月30日

鯖(さば)大師の住職が、私が座って休憩してると、白い車を降り、みかんを1つ持って、お接待にと近づいて来た。「わしぁ、お説教にあなたのことを、話しているよ。お大師さんはついとるよ」この人とは2回目に会った。 1回目は、ただ住職とは知らずに会った。私は、ただこのへんろは、周ればいいだけで、それ以上は大いなるものに身をゆだねるほかはないと思っている。(お説教をしているというが、私は“有名に”ならなくてもいい。そんなのはいやだ。自分の気持ちで、祈りを捧げればいいと思った)いい人らしいけど。

 

しばらく歩いて行くと海部川橋が架かってる。これを渡らなくちやならない。大橋を渡るに、バランスを取らなくちやならない。私は揺れる大橋を、一歩一歩渡っ て、まん中で風とゆらゆら迫れる橋が、怖くなって、しかし、止まるわけにも行かず、とにかく行かねば。そして向こう岸に、着いた時には、座りこんでしまい そうだった。ちょうど、そこにコーヒー屋さんがあった。そこへ入る。神経が疲れた。

 

宿屋は目の先に見える。しかし、ここでしばら休まなくちゃならない。カフェ・オ・レを注文した。店の人は、みんなやさしかった。時々、これを口の中に入れるとおいしいよと、「いりこ」の佃煮をそう言ってお接待をくれた。正面の壁に掛っている『遥か彼方よりのみ使い』という額はなんだろう?店の人に、聞いてみた。村の75才のおじいさんが書いて持って来てくれたそうだ。なにか気になる物だった。

 

5月1日

朝から雨がざあざあ降っていた。カッパを着て、バスを待っていた。しかし、 カッパを着てれば、雨には濡れないし、暖かいし、カッパは好いなあ!カッパの良さを知らなかった。きょうで、徳島が終わり、高知の室戸に入っていく。室戸 の岬のちょっと手前で宿をとった。

 

5月2日

室戸岬の先には、空海(西暦774年-835年)の遺跡がある。千年以上の 昔、ここに修行した御蔵洞(みくろど)という洞穴がある。岩の洞穴があり、今でも残っている。ここが彼の悟ったところだ。本当にここでは空や海は真っ青、 空や海は美しく、まぶしい。しばらく、そこにじっーといた。それから、24番の最御崎寺に上がるために山に登り始めた。まだ、山に登るのは、まだまだ、不 可能なので、自動車なら通る道を、選んで、登って行った。それでもきついところだった。しかし、いつかきっと、ふつうのへんろ道(相当きついところ)を 歩いてやろう。

 

5月3日

ゴールデン・ウイークに突入したんだ。これから行く先の、たった1ヶ所しかな い宿屋は、電話をするといっぱいになっていた。しかたなく、途中の25番札所の近くにある宿屋に予約を入れて、荷物をそこに置き、歩き出した。先を急いだ、つまり、旅の行程を続けて行った。26番札所の前までの2kmまで届いたんだ。明日は、その続きを打たねば、そう思って、バスで帰って来た。

 

5月4日

大事件が起った。きょうは、昨日の続きで、朝、バスに乗り、25番目の金剛頂寺まで、2kmの地点までやって来た。前に25番の札所については、情報を入れておいた(そのつもりだった)。ここからはへんろ道、一方、車の通る道(急勾配だろうと車は通れる)、平気で登れるよ、とある人から聞いていた。数百メ-トルのところに、へんろ道になる、ちよっと細い道がある。急勾配だが、のぼれない訳 はない。よいしょ、よいしょと登って行った。登って30分たった頃、急勾配がさらにけわしくなり、これはどうやっても登れそうにない、壁が前に立ち 塞がった感じがした。ちょっと一呼吸、あわてることはないと思った。朝早くもあるし、しばらく、待てば、(へんろ)が来るだろう。座り込んで待つことにした。

 

15分もすると、よいしょ、よいしょと20才の若い子がやって来た。女の子は機嫌良く(あまり機嫌良すぎ)「どうしたんですか?なんでも言って下さ い。やりますよ」と言った。「しかし、あなたには無理だよ。替わりに誰か呼んできて下さい。上に(上がどのくらいかあるか知らないが)行って誰か見つけて」、「じぁ、探して来ます。待ってて下さいね」それから、20分かけて、うどん屋のおじさんを連れて来た。「下へ降りるほかないよね。上へ行けば、上に行けば行くほど急になるし、もう下へ降りるほかないかな~~」

 

その時、ヒゲもじゃの男、つまり山男の様な、それに屈強な男が、「こんにちは、どうしたん ですか」と言って、静かに現れた。これはこのまま、上に登れよ、という意味だなと思った。「私を連れて、登って下さい」と言った。

男は「ああ、いいですよ」そして、男の荷物はうどん屋が持ち、私の荷物は女の子が持ち、私は男の肩に手を掛け、男は、一歩一歩、右足はここに掛け、左足はここにおいて、という風に、一歩一歩、上に上がって行った。そうやって、とうとう登ってしまった。途中から40分ばかりかかった。

 

うどん屋で、みんなでお疲れさんを言ってアイスクリームを食べたが、なにかを成し遂げた、という達成感があった。この若い男は、鯖大師に宿泊したらしくて住職からお説教を聞い たらしい。その中で私のことを聞いたようだ。ヒゲもじゃの男は、私を見て「あぁ、この人だ!」と思ったという。「これからも私と同じような人が現れるでしょう。そうやってへんろをやって下さい」と、この男は別れ際に言った。

 

  歩いていると空に虹のような模様があった
  歩いていると空に虹のような模様があった

5月5日

おばさんが一人だけの宿だった。トイレが和式だけだった。私は洋式でしか様を 足せないので、それで、おばさんは心配して、和式を、どうやったら、洋式のようなことができるか、いろいろ考えた。私を交えて、あーでもない、こーでもないと考えた。そして、結局のところ、(実験に)私が屈むようにしてやれば、出来ることがわかった。それははじめてのことだった。

 

5月6日

27番札所の神峰寺は、民宿から山の根元のところにある寺まで4kmのところにある。急な坂道は、すごいものがある。ゆっくりゆっくり、それをひたすら登って行かないといけない。私の身体では、それに時間がかかる。私の足では4時間はかかるだろう。

 

途中、へんろさん宛に励ましが、木の枝に下がった板ばんがある。いろんな言葉が目に付く。私はこの言葉にピィーンと来た。『千里の道も一歩から、急がず、大地踏みしめて』という言葉。じっくり噛みしめよう。帰りはゆっくり降りるため、足が一生懸命に踏ん張ってやらねばならない。夕方が迫ってたので、上のうどん屋さんの奥さんが帰る時間に出会ったので、車を止めて乗せてもらった。合計は8時間かかった。


5月7日
昼まで雨が降り続いた。昼になって、腹減ってきた。 前方にそば屋さんともう一軒カレー屋さんがあった。私は、歩きへんろの場合、そば屋さんよりカレー屋さんの方がうすよごれてるし、こっちの方が客が少しだし、こっち(カレー屋)を選んだ。

 

店の主人は、私の杖を見て「あれ、富士山の杖を持ってる!」それで、いきさつを話した。そして、少し話した後に「こんなところで、だんだん麻痺してる手足も、少しつづ、良くなっていくからね」私は「へえ、よく知ってるんですね」と、あいづちを打ち、なんでそう、わけ知りなのか聞き返した。
 

「わたしは、本当は修験者だし、普通は、こういう料理の仕事をしてるけれど」そしていつも勉強してる本を見せ、修験道という、たとえば奈良県の吉野から和歌山県の熊野へ、修験者たちが修験の山の中に入って、山を駆けたり、滝に打れたり、そうすると、しだいに霊力が見えて来るという。