ホスピス旅日記’97 ⑬

◆ロンドンでの国際ホスピス学会◆
ホスピス国際学会はロンドンの中心街のオックスフォード通りに近いロイヤル医学院で行われた。私は初めからこの会議に参加しようと思っていた訳ではなかっ た。たまたまアメリカにいた時にヨーロッパを旅する計画を立て、そのコースの上にロンドンがあったこと、そしてその日程のちょうど同じ頃にあたるというこ とからこの会議に参加することを決めたのだった。
こういう国際学会というのは、千人とか2千人くらいの人が参加するのかなあ、と何となく想像していた。しかし、その会議に参加したのは世界32ヶ国から 145人の人たちであった。日本からは私を含めて2名、それももう一人はブラジル在住の医師で、当分、日本には帰らないでしょうと話されていた。という訳 で純粋に日本から参加したのは私一人だけということになる。会議が意外に少人数で行われるのにはちょっとびっくりしたが、かえってこれくらいの人数の方 が、参加者の顔も見え、いろんな人と話しもできていいなと思った。
ちなみに、参加者を国別に見てみると、ケニア、オランダ、アメリカ、カナダ、クロアチア、イングランド、ドイツ、ベルギー、台湾、韓国などなどであった。台湾、韓国の人はそれぞれ10人くらいのグループをつくって来られていた。

◆パトリック・ケリーさん◆
少し前、日本で「ファイナル・ギフト」という本が話題になった。アメリカのナースであるパトリック・ケリーという人がその本を表わしたのであるが、その人 が一咋年の冬、日本縦断の講演ツアーを行なった。その時福岡にも来て、講演とワークショップがあった。私はワーク・ショップには行かなかったけれど、たま たま講演会だけは知人のおかげで参加することができた。このロンドンの会議にその人が参加されていた。講演会の時にお顔だけは見ていたので、ここロンドン で、会議が始まった日にさっそくお声をかけた。「昨年、福岡に来られたでしょう?」すると、たいへんなつかしそうに、「ああ、福岡からですか?」と言い、 日本で会われた方のことなどを話された。その後もいくどもケリーさんとは話す機会があった。

◆会議の流れ◆
会議は2日半かかって行われた。シシリー・ソンダースの基調講演、各国からの報告・発表、小グループに分かれての討議。そして懇親会があった。各国からの 発表では、アルゼンチンやアフリカのウガンダ、そして韓国などからの報告があった。みなそれぞれの国での苦労や、世界中からこうして一同に集まると熱気に 包まれるが、それぞれの国に帰るとまだまだホスピスケアに取り組むものは少数派なのだと言われた方もあった。
事務局からはホスピスをどうやって広めていくか、またネットワーキングを行っていくかなど提案と問いかけがされた。
私はこの会議の流れをじっと見ていると、確かにこの会議には世界中から人々が集まっているけれど、そしてホスピスは世界中に広まっているように見えるけれ ど、私にはどうしても西洋の思想であるホスピス思想を、アジアやアフリカや南アメリカの人たちが異口同音に言っているように感じられたのである。確かに発 表している人たちはアジア人やアフリカ人である。その肌の色も黒かったり、黄色であったりする。しかし、なんと言ってもクリスチャンの方が多い(韓国や台 湾から来られた方の中にもシスターの姿の方も多かった)。誤解を恐れずに言うが、西洋の思想や宗教であるキリスト教と「ホスピスの思想」のヨーロッパから 輸出されたものがヨーロッパの文化に即したアジアの人やアフリカの人たちから発表されているように私には思えたのである。私はキリスト教を否定している訳 ではもちろんない。ただ、私はそれぞれの文化に合ったホスピスとは何かを考えているだけである。

◆文化に合ったホスピスとは◆
例えばアメリカでは、全米で2000程のホスピスがある。しかしながら一般にはまだまだホスピスという言葉さえ知らないアメリカ人も数多い。
今度のアメリカ滞在でも思ったが、医師やナースでさえ、ホスピスのことを何にも知らない人も結構いた。
日本では1憶2千万人の中に20か30の「ホスピス」。また他のアジアの国々、タイだとかインドネシアだとか、またあの広大な中国ではどうだろう。こうし て見ると、アメリカに比べるまでもなく、アジアでのホスピスなどほとんど無、と言ってもいいのではないだろうか?キリスト教に乗って、アジアやアフリカの 地域に少々、ホスピスが拡がっても、それは本当の意味でホスピスが広がったとは言えないのでないだろうか?
もし仮に拡がったとしてもそれでは限界があるし、本当の意味でアジアやアフリカの地にホスピスが根付くことにはならないのではないだろうか?
その土地土地での「文化」に出会ったホスピスではないと思うからである。
「ホスピスの思想」とたとえば「アジアの思想」とが出会い、融合した時に、そこに初めてホスピスがアジアに根付けると思うのである。

◆グループ討議の中で◆
さて、大会議の後で、今度は10人くらいの小グループに分かれて、これからホスピス運動を広げていく中で何が一番大事であるか、話し合って、それぞれのグループの中で5つを挙げて、それをまた全体化していくことになった。
私はたまたまパトリック・ケリーさんと同じグループになった。ケリーさんがそのグループのまとめ役及び司会を行った。
いろいろな問題が出た。みんなに広めるための各国での教育の間題、ファンド(資金)の問題、薬の問題(というのはある国々ではなかなかモルヒネ、その他の 鎮痛剤を手に入れることができない)、それからネット・ワーキングのこと。私は普段思っていることと、この会議の中で感じたことを述べた。それは「今、ア メリカやカナダなどの北米では中国、日本の針灸などの東洋医学が非常にさかんである。このホスピスがもっと広まっていくためには、例えばこうした東洋医学 とか思想などの文化と出会う必要があるだろう。アジアとかアフリカの文化と出会う努力をしていくべきではないのか」と。
パトリック・ケリーさんはそれらをじょうずにまとめてみんなの中で発表してくださった。

◆シシリー・ソンダースさんのこと◆
この会議の初日には、初めて近代ホスピスを創ったシシリー・ソンダースが基調講演をしていた。それは『われわれは何処から来たか?』というタイトルでホス ピスの起こってきた流れから話されたものだった。それにしてもこのタイトルは岡村昭彦がよく言う「人は何処から来て、何処へ行くのか?」という言葉と良く 呼応する。
シシリー・ソンダースさんとは会議の合間にロビーで短い間ではあったが、言葉を交すことができた。もう80才のご高齢ではあるが、背中が曲がって、大きな方で、霊的な力の強い人に思えた。
ところでシシリー・ソンダースの言棄に次のようなものがある。これは1980年の第1回目のホスピス国際会議に話されたもので、岡村昭彦監訳の「ホスピスケアハンドブック」に収められたもので(直接的にはホスピスケアを考える会機関誌より転載)

『我々はホスピスの事業については、ひとつの位置に到達した。そこにはまるで聖なる牛のようになってしまった同じ血統で固められた信念がある。もし、私が 自分自身、ホスピスの事業を改善するためにできる最も建設的な事柄を考え出せるとしたら、将来に必要なことはその聖なる牛を撃つことだと思う。そうすれば 過去の実践から得た、新しい種類の観察力と、自由を手にして先に進むことができるだろう』
今、まさに私がこの会議の中で感じたのは、この聖なる牛のようになってしまったものではないのだろうか?もっと建設的になるためには今ある観念、ホスビスとはこんなものだという、なにか自然に私たちが思ってしまっているものを、いちど崩さねばならないのではないだろうか?
そこからまったく新しいホスピスというものが見えてくるんじゃないだろうか?その時に本当にホスピスは発展するのではないだろうか?ホスピスヘの道はなかなか遠いように思う。

◆ネットワーク◆
この会議の中で多くの人たちと話しができた。中でも特にクロアチア、台湾、ウガンダ、オーストラリアの人たちなどと話した。
クロアチアの看護師は言う。「国では戦争で、救急車などがほとんど破壊された。でもホスピスも必要です」
日本の事情にくわしいオーストラリアから来た医師は「日本では階層性(ヒエラルヒー)がはっきりしているので「チーム」がない。だから、ホスピスをやろうとするのはたいへんでしょうね」と。
懇親会の時、アメリカから来たある教授はやはり日本について詳しい方だったが、みんなと話しているとき、「日本では医者と看護(婦)がカンファレンスとい うのをやりますね。しかし、最後に医者が決めます。あれはカンファレンスではないですね」、と言って苦笑された。私もそのとおりだと思う。しかしながら多 くの日本人にとってはそうではないようだ。ただ国内にいるとあまり見えないことでも、外からだとはっきり見えるということがありそうだ。


        ベドラム精神病院の入り口


◆精神病院ベドラムのこと◆
いく人かの人とはその後もネットワークが保たれている。
会議が終わってから私はロンドン郊外にあるベドラムという精神病院へ行くことにした。それは岡村昭彦の「遠い道」の中で、紹介されているもので、その病院は以前、収容所として建てられ精神に障害を持つ者をひどい扱いをしたと記されているところである(今はそうではない)。
岡村昭彦は「遠い道」の中でホスピス運動を人権問題だと捉えている。彼のフォトジャーナリストとしての歩みはベトナム戦争に始まってビアフラ内戦、そして バイオエシックスからホスピスに辿り着いているが、「遠い道」はアメリカのセント・エリザベス病院という精神病院のケアの在り方と、患者の権利宣言のこと から始まっている。
しかしながら、私の中ではまだ精神病院のケアの在り方とホスピスとが十分にはつながってはいない。たぶん、それはそうなのだろうと思うがまだはっきりしない。
ロンドンのビクトリア駅から列車に乗り、南へ向かって30分くらい揺られる。駅に降り立つと、今度はそこから二階建てバスに乗ってその病院まで行く。その 病院は、今年ちょうど創立750周年を迎えたところだった。そのための催しもいくらかされているようだった。患者さんの絵や彫刻などの作品展があってい た。なかなか面白い作品が並べられていた。
古い昔、ここでは精神を病んだ人たちを動物のように収容し、鎖につないで見世物にしていたという。この病院の一角に、その歴史を展示した小さな博物館があるが、あいにく私の訪ねたときには土曜日だったため、入り口のドアは閉められていた。その上、改装中らしかった。
私はここまでせっかくやって来たのに、それを見ずに帰るのは残念だった。そこにはここの歴史が展示されているだろうからである。今度はいつ来られるとも分 からない。私はドアのベルを押していた。係りの女の人が、錠を開けドアを開いた。事情を話すと彼女はいやな顔ひとつしないで、中へ迎え入れてくれた。自由 に見てくださいと言って、彼女は隣の部屋の自分の仕事に戻った。そこには昔の患者さんとベドラム内の様子を描かれた多くの絵と、昔使われていた拘束具や鎖 などが展示されていた。


ベドラム博物館に展示されている拘束具

フランスでも精神科医のフィリップ・ピネルが1793年にパリのピセートル貧民病院でそれまで鎖につながれていた精神病者たちの鎖をはずしたことは看護史 のなかでは有名な事件である。フランス革命直後の時代にあってもピネルの行為は周りの人々の多くの反対に会った。しかしピネルの行為は患者にかわって人権 を世に訴えたのだった。
現代でもまだまだ精神を病む人の人権が十分認められているとは言い難いが、しかしながら、多くの人の努力によって少しずつ、長い間かかって人として人権を勝ち取りつつあると言ってよいだろう。


展示されている精神障害者の作品の一つ

一方、ターミナルの人たちの本人の意思が十分尊重されているのかどうか。家族の意思、あるいは時には医療者の意思が尊重されることも、ともすればあるのではないか。
私は現在、精神障害者の問題とも少しだけ関わる場所にいて、精神障害者たちへの社会的サポートの乏しさを感じている。乏しいままで放置されていること
は権利が十分認められていないということと同じであるだろう。
もし岡村昭彦が正しければ、ターミナルも精神障害者のことも、彼が取材した多くの戦争のこともつながっていくだろう。また人が幸せに暮らすということと、これらのことともつながりが見えてくるであろう。


  創立750周年を記念して作られたポスター
―つづくー