第十四回



 

半世紀を越えて
   ―「月光」の旅 ⑧


 まるで浦島太郎だった。七年ぶりの日本は“異国”のように思えた。
 巷(ちまた)には十五歳の美空ひばりの歌う「リンゴ追分」が流れていた。沖縄戦で壊滅状態となった小さな離島で貧しい暮らしを送ってきただけに、復興が進む本土はまばゆいぐらい明るく感じた。
 井藤道子が戦前から戦中、敗戦直後まで暮らした鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園も大きく様変わりしていた。
 プロミン治療によりハンセン病は治る病気になり、入園者の社会復帰は可能になった。園に自治会が生まれ、新憲法のもとで人権回復の扉が開かれようとしていた。
 ところが彼女を待ち受けていたのは「孤立」だった。懐かしい星塚敬愛園には冷たい風が吹いていた。

 一九五三年(昭和二十八年)のクリスマスまであと十日という日、「消毒婦を命ずる」と辞令を受けた。沖縄愛楽園では総婦長に次ぐ婦長席にいた。それがいきなり給料半減の雑用係「消毒婦」。理不尽な人事だった。三十六歳の時である。
 療養所内の人間関係は複雑になっていた。道子はその渦の中に巻き込まれ、彼女が看護婦として医務課勤務をするのなら自分は星塚を去ると言う女医がいる、そんな噂も聞こえてきた。

 入園者に映画を見せる係になった。ハンセン病患者の看護に専念してきた道子には、映画など無縁の存在だった。「悲しき口笛」「東京キッド」など大ヒットさせていた美空ひばりですら知らなかったのだから…。
 「那覇の街で買ったビスケットの袋に『美空ひばり』と書いてあったから、てっきり子供用ビスケットのメーカーの名前かと思い込んでいたの」
 園から十キロほど離れている街の映画館で封切映画を見て作品を選び、館主と交渉する。夜道を一人で歩いて帰る日々が続いた。
その頃に詠んだ短歌

映画業務に疲れし夜半を飯食ぶと俯くに涙落つ耐へ耐へをりし


「けれども不思議なもので、そのような中にあっても、主がいつも私を助けてくださいました」
 それまで駆け引きなどしたことがなかったが、なるべく安くで映画を持ってくるため映画館主に、ひたすら頭を下げた。すると相手は根負けして、法外な値段で上映してくれた。
 道子の前任職員は、映画館主から「今度の映画係の女の人は随分のねばり屋ですね。細くて小さくて、子供のような格好をしているのに…。いったい何者ですか」と尋ねられた時、「あの人には神様が付いているんですよ」と答えたという。
 信仰を支えに、「強制隔離の生活に耐えて、いさぎよく生きておられる、らい病む人たち」を手本にして、道子は与えられた職責を懸命に果たそうとした。

 以来、園の機関誌の編集や宗教係などさまざまな仕事をこなし、後に消毒婦から事務官になった。
 そして一九七三年(昭和四十八年)、沖縄愛楽園に転勤。二十年前に病気のために心を残して去った沖縄で再び働けると喜んだ。しかし、二年目で辞職を決意する。
 福祉室係長代理だったのだが、元看護婦の道子の元には健康や心の悩みを抱えた入園者が次々と相談にやって来るようになり、事務に追われながらではゆっくり話を聞いてあげられない、とボランティアでカウンセラー役をかって出たのである。
 こうして三十五年間のハンセン病療養所勤務を終えた。
 退職後も“元らい病む人たち”との交流は続いている。
 もうすぐ八十四歳になる今でも、毎週金曜日になると小さな体に大きなリュックを背負い、星塚敬愛園行きのバスに乗る。園内の宿泊所・星塚荘に二泊して長年の友人を訪ね、体の不自由な人を見舞うのである。
 数年前に胃潰瘍が再発して、一人宿泊している深夜、大量に吐血したことがあった。しかし、回復したらすぐに通い始めた。「井藤さんの元気そうな顔を見ると、私も元気が出ます」と喜んでくれる人たちの存在は、道子の励みになっている。


星塚敬愛園内の収骨堂の前に立つ井藤道子さん。
この園で暮らした2000人近い人たちが眠る
。(今年1月14日撮影
 










今年一月半ばの土曜日、私は星塚敬愛園で彼女と再会した。雪混じりの雨が降る寒い日だった。
 この日の夜、私も星塚荘に泊めてもらい「オアシス」の取材をすることにしていた。時間はゆっくりある。もしかしたら、私が彼女に感じている奇妙な感覚の訳が分かるのではないかという期待があった。
 私は五年前に彼女と初めて会ってから昨年まで四回にわたり話を聞いてきた。道子が初めて星塚敬愛園の門をくぐってから今年で六十年。その間、ハンセン病 患者に対する強制収容・強制隔離や戦争という私には想像もつかない時代を歩いてきた。その道のりは険しかった。
 だが、私は“不思議な明るさ”を彼女に感じてきた。なぜなのだろう。その明るさはどこから来ているのだろう…そう思い続けてきた。

 星塚荘の食堂で向き合い、四時間近くインタビューした。彼女は疲れた様子も見せず、記憶の中に鮮明に刻まれたさまざまな出来事を語ってくれた。
 ほとんどは、これまで何回か聞いたエピソードや、彼女自身が本に著している話だった。私は「オアシス」に書くため細かい部分を確認した。
 その作業が終わりに近づいた頃、私は少しいじわるな質問をした。
「なぜ療養所を辞めなかったのですか。意地ですか」
 患者の人権を無視した園の規則や職員の態度、理不尽な人事に疑問や怒りを抱いていたのに、どうして辞めるという選択をしなかったのか、と聞いてみたのである。
 すっと表情がくもった。
「嫌だったら辞めればいいんです。でも子供たちがかわいそうだったの」
 彼女は療養所の子供たちに慕われ、少年舎のお母さんと呼ばれていた。食糧が不足していた時代には、一緒に残飯を食べたこともあった。
「親元を離れてきて、それでも健気に生きていて…」
 私が彼女から「かわいそう」という言葉を聞いたのは初めてだった。
「私はね、らいの人たちを哀れだと思ったことはないの。でも、子供たちはかわいそうでしたよ」
 意地ではなく、愛情だと言った。そして彼女は意外な話を始めた。
「私もハンセン病になった方がいいと思っていた時代があるのよ。それで、自分に菌を植えたことがあってね」
 聞き漏らしそうになるほど、さり気ない口調だった。
「らい菌を?」
 私は驚いて尋ねた。ハンセン病は今では治る病気だが、当時は不治の病と恐れられていた。
「そう。二十五、六歳の時に生菌を植えてみたの」
「なぜ、そんなことを?」
 彼女は、療養所勤務になる前の病院で研究室の手伝いをしていたから顕微鏡を扱えるし、培養菌も作れるからだと説明するが、患者の苦しみを知っている看護婦が、自分に菌を植えるだろうか。
「子供たちから差別されたの。『僕たちは病気だけど先生は健康だ。この病気にならないと分からないよ』って。だから、この幼い子たちと接していくには私も一緒の病気になった方がいいと思って」
 ハンセン病の療養所が設立されて百年余りだが、この病気に罹った職員は誰一人いないという。それほど感染しにくい病気なのだが、菌を植え付けたなら…。
「でも罹らなかったのよ」
 はにかんだ少女のような笑顔だった。

 ハンセン病の長い歴史の中で自分に菌を植えた人など恐らくいないだろう。私は、五年前に会った時の彼女が微笑みながら「私は正しいと思ったことはするの」と言ったことを思い出した。
 戦火の中を近衛文麿に「天皇に戦争を止めるよう進言せよ」と告げに行ったのも、戦死した兵士の遺骨を終戦直後の沖縄から密かに持ち出したのも同じことかもしれない。それが彼女の流儀なのである。

 道子の歌集「野の草」の冒頭に、彼女が終生敬愛する矢内原忠雄直筆の詩が収められている。

神はわが傷あとに草の香をたヾよはせわが損失のあとに野花を咲かしむ



歌集「野の草」


 
















こんなイメージが浮かんだ。
 岩だらけの枯れ果てた土地に、へばりつくように生えている野の草が、わずかな光を感じて可憐な花を咲かせていくような、暗闇の中で朝が来るのを信じて根をしっかりと張っているような…。
 私が彼女に感じた不思議な明るさは、遠く遥かな光をめざして自分の流儀を潔く通す彼女の生き方そのものから来るのではないかと思った。



 「月光の旅」で出会った人たちの姿が私の中で重なり合ってきた。
 突然届いた一枚の赤紙で戦場に送られ、沖縄の山中で戦死した山倉兼蔵の遺骨を家族の元に帰そうと力を尽くした仲嶺盛文をはじめとする沖縄の人たち。
 死を目の前にして葛藤しながら、日本の未来の礎になろうと南の空に消えていった黒木國雄ら特攻隊員。
 戦時中、弾圧を受けながらも「国の理想は正義と平和にある」と訴えた矢内原忠雄  。
 私は、半世紀前の戦争をたどる旅の途中で、不思議な縁(えにし)の結びつきの中で、自分の流儀を通した人たちと出会った。

宮崎県立芸術劇場で開かれた宮崎県主催「終戦五十周年記念の夕べ」でベートーベンのピアノソナタ「月光」を弾く松浦真由美さん。終戦間際、出撃前の特攻隊員が弾いたピアノで演奏した。(1995年8月1日)


 この旅は、ピアニスト松浦真由美が終戦五十周年記念のステージでベートーベンのソナタ「月光」を弾くと決まった時から始まり、彼女が舞台を降りた瞬間に終わるはずだった。ところが、昨年夏からの「月光の旅」連載で私は再び旅に出ることになった。
 この新たな旅立ちで、五年前に見えなかった糸が一本につながり始めた。そのことが何を意味するものなのか、今は分からない。ただ、この糸をたどっていくことで、次の扉を開く手がかりが見つかるような気がしている。
 「月光」の調べは、これからも続く私の長い旅の中でずっと鳴り響いているに違いない。
(「月光の旅」終わり)

■参考資料
井藤道子著「祈りの丘」「星塚敬愛園と私」、歌集「野の草」